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溺甘マリアージュ 飯マズですが一途な王子に求婚されて食べられました

森田りょう / 著
えだじまさくら / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/07/26

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内容紹介

クリームごと、お前を食べたい
「俺の求めていた味だ」今はなきグリムネス国の元王女ソフィアは、お菓子屋の娘として料理に励む日々。しかし、何を作っても飯マズなのがコンプレックスだった。そんなある時、ひっそりと店を訪ねてきた隣国の王子ケヴィンにお菓子を食べてもらったら、突然求婚されちゃって!?  ひと月の滞在の間に見極めてほしいと政務の合間に店に通ってくるケヴィン。めくるめく甘い言葉に胸高鳴るデート、寡黙だけど優しい彼に甘やかされ……。「俺のものになってほしい」と、クリームのように甘くトロかされて!?

立ち読み

               プロローグ

 ひっそりと静まり返った部屋に、荒い息遣いだけが響いていた。
 ゆらりと燭(しょく)台(だい)の灯が真っ赤に燃えさかり、二つの人影を揺らめかせていた。
「……んっ……ぁ、はあ……あ……」
 痺(しび)れる。頭の中、それに、体の奥底までもその痺れは深く浸透して、ソフィアを甘く蕩(とろ)けさせていった。
「ソフィア……お前の蜜はとても甘い。いつも俺に作ってくれるお菓子のように──」
「んっ……そんなこと、思ってない……くせに」
「いや、思っているさ。お前が作るお菓子は本当に甘くて美味(おい)しい。……俺は好きだ」
「ケヴィン様……」
 チュッと、ソフィアの手の甲に、ケヴィンの唇が押し当てられる。それからさらに、ケヴィンの舌先はソフィアの指を妖(あや)しく舐め始めた。
「ひゃんっ……んんぁ……」
 ぴちゃぴちゃと、ケヴィンの舌先がソフィアの指の間までも絡みとっていく。
「ケヴィンさ……ま、そんなところ、舐めちゃ……なんだか変な気分になって……しまいますっ」
 ふるふると体を小刻みに震わせながら、ソフィアは甘い声を紡(つむ)いだ。
「変な気分か? どんな感じになっているのか、俺にわかるように説明してくれないか?」
 指先にキスをされて、強い眼差しで自分を見つめてくる真っ黒な瞳は、ソフィアのすべてをぞくりとさせる。
 感情が揺れ動く。
「あ、あの、ケヴィン様、待って……待ってくださいっ」
「待てない」
 一言、そう言い切って、ケヴィンはソフィアの体を抱きかかえ、そっとベッドへと押し倒した。
「待てるわけがないだろう?」
 ぷち、ぷち……と釦(ボタン)を外していくケヴィンの姿に顔を真っ赤にさせながら、自分の心臓の音をひしひしと感じる。
 ――心臓の音が激しくて、どうすればいいかわからないわ。
 こんなふうに、男性に触れられたことのないソフィアは、半ばパニック状態に陥っていた。
「あ、あのっ……ケヴィン様、わたくし……わたくし……」
「俺に身を任せればいいだけだ──ソフィア」
「ケヴィン……様……」
 ケヴィンの手は、ソフィアの美しい薄桃色の長い髪を撫(な)でつけていく。するりと指で髪を優しく梳(と)かされて、すんっと鼻で香りを嗅(か)がれた。
 愛おしそうに髪にまで口づけるケヴィンの姿を目にして、ソフィアは一瞬、上体を起こす。
「ずっと……お前を求めていた。ずっと、探していた。ずっと、こうして触れたかったんだ──」
 しっとりと見つめられて、ソフィアは恥ずかしくなり、思わず両頬を自らの手で押さえた。
 そんなソフィアの顔を覗き込みながら、ケヴィンは絶えず愛の言葉を囁(ささや)く。
「愛している、ソフィア」
 無表情で寡黙だと思っていた彼から甘い言葉を捧げられて、ソフィアは驚きと羞恥でいっぱいいっぱいだった。
 まさか、彼とこういうことになろうとは考えてもいなかった。
 自分にはこんなこと、関係ないことだと思っていた。
「ソフィア、お前は俺のことをどう思っている? 教えてほしい」
「わ……わたくしは──」
 ソフィアは頬を朱に染めながら、ゆっくりと口を開く。静かな部屋に、そっと、ソフィアの思いが響き渡った──。


                1

 アスティア国ローゼ地方──。
「きゃああああっ」
 ボンッという音と共に、キッチンには真っ黒な煙が立ち上った。
 充満する煙から逃れてきたのは、ソフィア・ロッシュだ。
 淡い薄桃色の美しい髪がすすを被って真っ黒に変色してしまっている。
「ソフィア? な。何事ですかっ?」
 ホールにいた母、アリーナが慌ててキッチンのほうへと駆け寄ってきた。
「あああ! またやっちゃったわ。今回はうまくいくと思ってたのに」
「大丈夫なのっ? 怪我はないっ?」
「ええ、大丈夫です。怪我はないわ」
「それならよかったけど……。また派手にやっちゃったわね」
 キッチンの様子を見て、アリーナはぽつりと呟く。
「す、少しよ! ほんの少し失敗しただけですわ! また次頑張れば大丈夫」
 すすで汚れてしまった顔を手で拭(ぬぐ)いながら、ソフィアはため息を一つ零(こぼ)した。
「すみません~、注文よろしいですか?」
「あ、はい! ただいま参ります」
 客の声を聞き、アリーナはバタバタとホールへと戻って行った。


 ここ、【ロッシュロゼ】は田舎町の小さなお店。
 パンやお菓子、スープなどを振る舞っている。
 屋敷を改築して、一階がお店、二階が居住スペースとなっている。赤色の屋根と真っ白な壁でこぢんまりとした雰囲気のお店だ。ローゼ地方の端、他国との境界に位置するためか、客は知り合いか、ときおり立ち寄る旅人ばかり。
 実際、この店だけで家族が養えているわけではない。
 父、レナードは政府の書物を扱う部署で働いており、休みの日はたまに店を手伝うが、主に母であるアリーナが店を仕切っていて、料理やお菓子もすべて作っている。
 兄のヴィンセントはアスティア国の騎士で、首都セシルナで暮らしていて、長期の休みに入ると家に数日間は戻ってくる。そんな生活をしていた。
 姉二人はすでに他国へと嫁いでいるため、ここで生活しているのはソフィアと父、母の三人である。
 ロッシュ一家がアスティア国で暮らしているのにはある経緯があった。


 自然豊かな木々に囲まれた美しいグリムネス国──。
 十年前ロッシュ一家はこのグリムネス国の王族であった。だけど、ある日突然、グリムネス国は自然の驚異によりその姿を消してしまった。国全体が溶岩の中に沈んでいく様子を、ソフィアは幼き眼(まなこ)で見つめるしかできなかった。
 人の力ではどうしようもなく、隣国アスティア国へと避難するだけで精一杯だった。
 幸い、王家の血は絶えることなく、ロッシュ家は全員が無事にアスティア国へと逃げ延びることができた。
 しばらく避難生活が続いた後、アスティア国の恩恵により、生き残ったグリムネスの人々はアスティアの各地に住みつくこととなる。
 なにもかも失い、命からがら逃げた人、友を亡くした人、家族や恋人を失った人、皆、ゼロからの生活を余儀なくされた。いや、ゼロ以下だろう。
 王家の地位でさえも、他国ではまったく通じない。
 ただ、一日、一日をどう生きるか。
 それだけで毎日が過ぎていく。
 ソフィアの父母であるグリムネス国王、そして王妃は、土地や家を与えてくれた他国の人々に感謝しながら、小さな店を開いて、王子と姫を守ることを優先に日々を過ごしてきた。
 ――だけど誇りだけは忘れない。
 王族であったという誇りだけは忘れてはならない。
 王と王妃は、己の息子と娘に、徹底的にすべての基礎を教えた。戦い方や社交界での基本姿勢、食事のマナーなど、すべてを子どもたちに教えた。
 だけど、教えられたことを生かすこともできずに、十年の月日が流れていった──。


 まさか、元王妃が料理を作ってお店を経営しているなんて、みんなが知ったら吃驚(びっくり)するだろう。
 けれど、この店の経営は赤字に近く、決してこれだけで食べていこうなどとは思っていなくて──。
 母のアリーナはただ、料理をするのが好きで、いろんな人に自分が作った料理を食べてもらいたくて、頑張っている。
 わたくしだって、料理をするのは好き。だからお母様を手伝っている。
 ソフィアはそう思いながら、すすで汚れた服を着替えようと二階へと向かった。
 わたくしも……しっかり手伝って働かなきゃ。でも……わたくしの料理は……はっきり言って……。
「不味い」
「なっ……お、お兄様っ? さっきまでぐっすりと眠っていたんじゃないの……?」
 ソフィアが昨日の夜に作った胡桃(くるみ)パンを手に持って「不味い」と呟いたのは長期休暇中の兄、ヴィンセントだった。
 薄茶色の髪を無造作に掻きむしり、大きな欠伸(あくび)をする。
 黙っていればかっこいいはずなのに、口を開くと毒舌だからか、決まった女性はいないらしい。
 一応、グリムネス国の元王子だ。それなりの凛々(りり)しさと威厳を兼ね備えているが、何分、誰に対しても厳しく、不味いと思えば不味いとはっきり言うため、ソフィアとはいつもケンカばかり。
「あのような爆発音で眠っていられるほど鈍感ではない。また失敗したのか?」
「い、いえ、失敗じゃないわ。ちょっと……焦げてしまっただけですもの」
「ちょっとどころではないように思えるが」
 キッチンの窓から煙がもくもくと上がっているのを、二階にいたヴィンセントでさえ確認ができる。
「いや、確実にちょっとどころではない!」
「そ、そんなはっきり言わなくても! いじわる言わないでくださいっ!」
「いや、いじわるではないだろう。本当のことを言ったまでだ」
「そ、そういうときは可愛い妹のために、もう少し気の利いた言葉をかけてくれてもいいじゃないですか?」
 着替えることも忘れ、ソフィアはヴィンセントと口論を始めた。
「ソフィア! 早くこっちに戻ってきてちょうだい!」
 一階から母の声が聞こえてくる。
「わかりました! 今すぐそちらに向かいますわ!」
 ソフィアは大急ぎで部屋で着替えてから、一階へと下りた。
 ヴィンセントも同時に下り、ソフィアの後を追う。
「キッチンは俺が片づける。お前は母様を助けてやれ」
 口は悪いが、さりげなく助けてくれる優しさも少しはある。
「お兄様、ありがとうございます!」
「ほんと、料理の下手な妹を持つと、大変だ」
 ぼそっとヴィンセントの呟いた言葉にムッとしたソフィアだったが、こればかりはソフィアも反論できない。
 もちろん、自分でもそれは自覚している。
 母は料理が得意だというのに、自分はなにをしても失敗ばかりで──。
 悩む日々に追い打ちをかけたのが、あの失恋だった。
 一年以上も引きずっている失恋は、ソフィアの心をズタズタに引き裂いていた。
 そう、一年前にこっぴどく振られたのも、わたくしの料理の失敗が原因だった──。


 ──一年前。
「ルドルフ、今日はお招きくださり嬉しいですわ。あなたのおうち、初めてで少し緊張をしているのだけど……」
「はは、ソフィア。緊張なんかしないでいいんだよ。今日、この家にいるのは僕と君だけだ」
 ルドルフは農家の一人息子だ。
 そこまで裕福な家庭ではないが、自由な暮らしをさせてもらい、学校で教養もしっかりと学んでいて、爽やかな青年だ。
 端正な顔立ちをしていて、それに優しい。
 お互い、顔見知り程度だったが、友人の紹介でその仲は親密になった。といっても、ソフィアはまだルドルフに体を許してはおらず、ゆっくりと愛を育んでいくことを望んでいた。
 それはルドルフも承知してくれていて、何度かデートを重ねていくうちに、いつかはこの人と結婚をしてもいいかも……とソフィアの中での想いも着実に膨らみ始めていた。
 まだ手を繋ぐことしかしていないけれど、ルドルフなら真面目だから、わたくしのことを大事にしてくれるはず。
 そう確信したソフィアはルドルフの家に招かれたこの日、料理を手作りしようと考えていた。
「お父様やお母様たちはご不在なのですよね?」
「ああ。みんなで旅行に行ってるんだ。帰ってくるのは明日だけど……ソフィア、今日はここに泊まってくれるのだろう? そろそろ僕たちも真剣に結婚のことを考えないといけない時期なのかなと。もちろん、君との約束は守る。君に手を出すようなことはしない」
「ええ。それはもちろんですわ。わたくしも、あなたとの結婚を考えて、今はお料理も頑張っているところです。それに、少しおしゃべりしたくらいじゃ、お互いのことは理解できないとわたくしもそう思いますわ。今日は夜通しお話しいたしましょう!」
 そうソフィアは胸の奥を弾ませながら、夕食を作ろうと張り切っていた。
「夕食、今から作りますわね。ルドルフはなにがお好きですか?」
「君が作った手料理ならなんでも食べれるさ」
 ソフィアは笑みを浮かべる。
「楽しみにしているよ、ソフィア」
 ルドルフの言葉に、ソフィアは俄(が)然(ぜん)やる気がみなぎってきた。
 幸せだった。この関係を半年ほど続けて、ゆっくりとお互いを理解しあってきたつもりだ。
 そして今日、初めてルドルフの家に招かれたソフィアは、料理を作ろうと数日前から練習に励んでいた。
 今こそ、練習の成果を見せるとき!
 たとえ失敗したとしても、ルドルフなら笑ってくれる。
 いえ、失敗は許されないけれど、ルドルフの口に合わなかったとしても、ゆっくりと彼の口に合う料理を作れるように頑張ればいいだけ。
 きっと、ルドルフもそう言ってくれる。
 ソフィアはそう信じて、ひたすらに料理を作った。
「少し時間がかかってしまったけれど、出来上がりましたわ」
「おお、ソフィア、こんなにもたくさんの料理を作ってくれたのか? 嬉しいな」
「トマトスープに、鶏の煮込み料理、魚のムニエルにデザートとパンもありますわ! さあ、どうぞ、召し上がってくださいませ!」
 ソフィアは普段より上手にできたと自信があった。味見もきちんとした。だが、ルドルフの口に合うかが心配でたまらない。
 ルドルフがスプーンでトマトスープを掬(すく)い、口に入れた。それからさらに、鶏の煮込み料理やムニエル、パンにも手を出したが、もごもごと口を動かしたままで、眉間に皺(しわ)を寄せている。
 静寂な時間が、ただただ、流れていった。
「ル、ルドルフ? どうかしたの? なんにもしゃべってくれないから……」
 ソフィアは心配そうにルドルフに尋ねる。だが、ルドルフはスプーンやフォークをそっと置いて、それっきり料理を口に運ぼうとはしなかった。
「ルドルフ、お願い。なにか話して」
 もう一度尋ねてみると、ルドルフはゆっくりと口を開く。
「……ソフィア、どうやら君の料理は僕の口に合わないようだ」
 ルドルフの言葉にソフィアは絶句した。
「あの、それは……改善するわ。もっと、もっと、あなたの好きな味に近づけるようにわたくし、頑張ります」
「いや、これは、改善どうこうより……なんというか……」
「ルドルフ、はっきり言ってください! そのほうがわたくしだって……」
 覚悟が決まるというもの。
「……不味い。君がこんなに料理が下手だったなんて誤算だった。……悪いが、君とは結婚できない」
 がらがらとなにかが崩れたように、自分自身が崩壊していくようだった。内側の、奥の奥のほうで今までの楽しい日々が一気に──。
 この人とならいい家庭を築ける。
 いつか、たくさんの子どもを産んで、笑いが絶えない日々を過ごすことができる。
 下手な料理だって笑い飛ばしてくれるような寛大さを僅(わず)かながら期待していた。
 けれど、それは理想だ。
 そう思うしかない。


 当時の記憶がゆっくりとよみがえって、ソフィアは閉じていた目を開ける。
 もう一年も前のことよ。
 と、自分に言い聞かせるように、ソフィアは軽くかぶりを振った。
 だいぶ立ち直ってきてはいる。
 兄に不味いと言われても、ぜんぜん平気。
 ソフィアはパン生地を手で捏(こ)ねながら、ぽろりと涙を一粒零した。
「平気よ……。わたくしは大丈夫」
 同じ言葉なのに、好意を寄せている人に「不味い」と言われれば、一年もショックを忘れられないものなのだと、ソフィアは痛感していた。
「ソフィア? どうかしたの?」
「べ、べつに……なんでもないですわ」
「あらっ、ソフィア、あなた、泣いているのっ?」
 アリーナは驚いて、ソフィアの顔を覗き込んだ。
「ヴィンセント? ちょっとこちらに来てちょうだい! あなた、もしかしてソフィアになにか言った?」
 キッチンにいたヴィンセントを呼び出す。
「なに? どうかしたのか? って……ソフィア? お前っ、なんで泣いてるんだっ?」
 お兄様の所為(せい)で、一年前の失恋を思い出したなんて言えない。
「玉ねぎが目に染みてしまった所為よ。心配しないで」
「さっき、俺がお前のパンを不味いと言ったからなのか?」
「ヴィンセント! あなた、またそんな言葉をソフィアに向かって言ったの?」
「いや、俺はただ……ソフィアに料理をうまくなってほしくて忠告をしただけだ。それに、こういうことは家族が指摘しなければいつまでたってもうまくならない。そうだろ?」
 ヴィンセントははっきりとそう言った。
 ソフィアは自分で作った料理をそっと手に取り、静かに見つめていた。


 お昼前から夜は八時頃まで【ロッシュロゼ】は店を開けている。
 夜の九時頃になると、父親が帰宅し、家族で食卓を囲むのだが、ソフィアは食事の後片付けをすべてこなした後、さらに深夜まで、店の片隅で試作品を作る毎日。
 こんなにも愛情をこめて作っているのに、どうして不味いのだろう。
 元々明るく、誰とでもすぐ打ち解けるソフィアだったが、あれから恋愛に臆病になってしまった。もちろん、お客様とは普通に接することができるが、自分のタイプの人が現れても、躊躇(ちゅうちょ)してしまう自分がいた。
 あの一件以来、自信を喪失して、まともな人と結婚できる気がしなくなっていた。
 家族が心配して、お見合いの話を持ってきても、乗り気にはなれなかった。
 相手を選べる身ではないとわかっていても、自分の作るものを美味しいと言ってくれる人が現れたら――。
 そう思っているが、また、料理のことでフラれてしまったら今度こそ立ち直れない。
 でもほんの少し、こんなわたくしにでも希望を持つことができるとしたら……。
 ソフィアは一晩中、焼き菓子の生地を必死に捏ねていた。

               ◇◇◇

「道に迷ってしまったか……」
 暗いけもの道を、一人の青年が歩いていた。その後ろからは従者らしき男が青年を必死に追いかけている。
「ケヴィン様、ま、待ってくださいませ!」
「クハラム、遅いぞ。松明(たいまつ)から遠ざかっては獣(けもの)に食われてしまうぞ」
 ケヴィンと呼ばれた端正な顔立ちの男は松明を掲げながら、真っ直(す)ぐにけもの道を進んでいた。
「も、もとはといえば、ケヴィン様が道に迷ったからでございましょう?」
 ケヴィンよりも幾分かは幼い容姿の気の弱そうなクハラムが小走りで駆けてくる。
「ああ、そうだったな、すまない」
「そ、そうですよ! だいたい、どうして地方で仕事があるたびに、お店を回ってお菓子屋巡りをしているんですかっ? なにかを探しているみたいに……」
 クハラムの言葉に、ケヴィンは言葉を詰まらせた。一度、キュッと唇を締め、懐かしむような眼差しを向ける。
「べつに……なにもない。クハラム、お前だって、美味しいお菓子が目の前にあれば食べるだろう? ただ、それだけだ」
「だったらどうして……こんなふうにけもの道に入ってまで、お店を探すんですか?」
 もう僕は限界です、とクハラムはケヴィンに泣きついた。
「周りは真っ暗だし、ぜんぜんなにも見えないじゃないですかっ!」
「お前は俺の従者だろう。俺より先に弱音を吐いてどうする? それに一人で山に入るならまだしも、二人だ。二人だと怖くないだろ?」
「カーディナル国に戻ったら、僕はケヴィン様の従者を辞めますから! ぜっっったいに辞めますから!」
「そういう権限は俺にしかない。お前の一存で決められることじゃないぞ」
 淡々とした言葉が、クハラムの心に次々と突き刺さっていく。クハラムはもう反論する力さえも残っていなかった。口を閉じて、ひたすらにけもの道を登っていく。
「さて、どうしたものか」
 鬱蒼(うっそう)と生い茂る草木を掻き分けながら、灯りの一つも見つけることができないケヴィンは少しばかり思案していた。
 このあたりで登ってきた道を引き返したほうがいいのかもしれない。
 そう考え始めていた。
 だけど、せっかくここまで来たという思いもある。必死になって山道を登ってきた時間がすべて水の泡になってしまうのだから。
「は、早く町まで戻って、宿に引き返しましょう。今戻らないと、今夜は一晩、山で過ごすことになりますよ?」
「それでもいいんじゃないか? こういうこともあろうかと、装備は完璧に備えてあるしな」
「だめですよ! 一国の王子がこんな山の中で護衛もなく、誰かに襲われたりしたら……」
「アスティアのローゼは穏やかな田舎町だ。それはない。というより、そういうことを口走るな。誰がどこで聞いているのかわからないんだぞ? せっかく仕事でこっちにきているというのに」
「こんな山道、人なんて誰もいませんよ。いるとしたら、異(い)形(ぎょう)の類か獣か……」
「異形の類というのは?」
「魔女とか悪魔とか」
 はあっと呆(あき)れながら、ケヴィンはため息を漏らした。
「昼間のローゼを見ただろ? とても明るくて活気のある町だったじゃないか。そんな魔女とか悪魔とかが出るような町ではないぞ」
「ケ……ケヴィン様、もう、僕は限界です! 死にそうです!」
 クハラムはそう嘆き、しゃがみ込んでしまう。
「おい、クハラム。気軽に死ぬとか口に出して言うな。ほら、さっさと立て」
 ケヴィンがクハラムの腕を引っ張り持ち上げた。
「ほら、もう月もさっきより近くにある。頂上もすぐかもしれないぞ」
 無表情で冷たい雰囲気で言い放たれているというのに、言葉はとても温かく、クハラムはケヴィンの言葉を信じ、再び歩き始めようと唇を噛みしめる。
 しばらく真っ直ぐにけもの道を登っていくと、ほんの少しだけ灯りが見えた。
「クハラム、見ろ! 灯りがあるぞ」
「どうせ家だと思いますよ? 山の所有者の家なのでは?」
「いや、あれは……店だ! 看板がある!」
 ケヴィンは無我夢中で、けもの道を駆け上がる。月明かりに浮かぶ、その屋敷に近づくたび、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。


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