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溺れるままに、愛し尽くせ

佐木ささめ / 著
幸村佳苗 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/04/26

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内容紹介

好きなだけ、啼いていればいい
「可愛い。もっと、いじめたくなる」
一般職総務の楓子は突然、新ビジネス推進室長となった御曹司嶺河の第二秘書に抜擢される。イケメンな嶺河の眼差しに勘違いする女子社員が大量生産される中、楓子は嶺河の笑顔にも“興味がなく、飄々としている”ところに注目されたせいだった。しかし、実は楓子には嶺河との思い出したくない過去があって!? もう二度と会わない人と思っていたのに、『好きなだけ啼いていいから』と、耳元で甘いおねだりを囁かれて。過去の罪滅ぼしをするかのように、無慈悲な甘い高揚感を与えられて……。

立ち読み

プロローグ


 カラン、とガラス同士が軽くぶつかる音が、己の内側から響いた気がした。たまに自覚するその空虚な音が、今日はやけに大きく聞こえる
 原因はこの人かと、瀧(たき)元(もと)楓(ふう)子(こ)は遠くにいる彼を見て思う。その人物をひと目見ただけで、自分には誰であるかが分かった。
 高い鼻(び)梁(りょう)に切れ長で涼やかな瞳。彫りの深い美しい品のある顔立ち。身長はさらに伸びたのか、自分より頭一つ分以上は確実に大きい、そして日本人離れした逞(たくま)しい体(たい)躯(く)。
 昔はあそこまで筋肉質じゃなかったのに、いったい何が起きたのかと楓子はやや混乱する。
 隣を歩く先輩の濱(はま)路(じ)は、驚異的な美貌を見て唖(あ)然(ぜん)とした声を出した。
「噂通りのすっごいイケメンね。遺伝子の奇跡を見た感じだわ……」
 そう呟きながら立ち止まってしまったため、隣を歩く楓子も足を止める。通路の奥から美人秘書を伴って近づいてくる彼の姿を、尻目に見ながら他人事(ひとごと)のように答えた。
「あの方が嶺(みね)河(かわ)室長ですか。本当にお若いですね」
 東京(とうきょう)にある同業他社で働いていた彼は三十歳。その若さで自社――M(エム)C(シー)Ⅱ(ツー)株式会社の役員に抜擢(ばってき)されるとは前代未聞だ。中部圏の通信インフラ工事を一手に引き受け、全国展開もする大手企業でもあるのに。
 創業者であり、代表取締役会長でもある嶺河定(さだ)嗣(つぐ)氏の孫というのも大きいが、それだけの実績を打ち立てており期待もされているのだろう。
 通信建設業、いわゆる通建業界は既存事業の抑制傾向が鮮明となっている。上層部は総合エンジニアリング企業として、M&Aや新技術の導入等、事業領域の拡大を目指している。そのため新ビジネス推進室の担当となった嶺河の手腕に期待が寄せられていた。
 仕事もできる美形の御曹司ということで、この場に居合わせた女子社員たちは全員彼に注目している。
 しかし楓子は目を合わすことさえ恐ろしい。大きな体躯が近づいてくると、心の中で悲鳴を上げながら顔を伏せて身を縮める。
 ……嶺河はこちらを歯牙(しが)にもかけず通り過ぎていった。
 助かった。楓子が大きく息を吐きたいのをこらえていたら、隣の濱路が感嘆の溜め息を漏らす。
「いやぁ、老けて見えるわけじゃないのに貫禄がある男ね。あれで私より年下って信じられない」
 今年三十五歳になる濱路は子持ちの既婚者だったりする。
「そうですね。迫力があってちょっと怖い感じがします」
「あ、だから瀧元ちゃん、ビビってたの?」
 そんなに露骨だったかと少し冷や汗をかきつつ曖昧(あいまい)に笑っておく。
 しかし嶺河に素通りされたことで、若干気分は軽くなった。
 彼と最後に会ったのは、もう十二年も前のこと。こちらのことなど完全に忘れ去っている様子なので、思い出すこともないだろう。それに役員フロアは本社社屋の十二階にあり、自分が所属する総務部は四階。そうそう会うこともないはず。
 予想通りそれ以降、嶺河と顔を合わす機会はほとんど訪れなかった。偶然、彼とすれ違うこともあるにはあるが、嶺河は楓子をまったく思い出さない。目が合って微笑まれることもあるのに。
 ラッキーだな。と彼女は心から安堵するのだった。



第一章


 その日は思い返してみると、朝からツイていなかった。
 目覚まし代わりにしているスマートフォンのバッテリーが寝ている間に切れてしまい、翌朝アラームが鳴らずに寝坊。慌てて身支度をして出かける直前、ヒールの踵(かかと)が折れて転倒。その際にストッキングを伝線。
 着替えにかかったロスを取り戻すべく駅まで走ったが、いつもの電車には当然間に合わず。おまけに満員電車で密着したおじさんからいやらしい目で見つめられ、精神的ダメージをバンバン受けた。
 電車を降りてダッシュしたおかげで、始業ミーティング一分前にオフィスへ到着。しかし寒風を真正面から受けて前髪が立ち上がり恥をかいた。
 極めつけは総務課長の久(く)賀(が)からのお呼び出しだ。業務を始めた途端、いったい何事かと上司に付いていけば、連行された第三会議室では人事部長の小(こ)守(もり)まで待機しているではないか。
 ――なんで小守部長がいるの? って、まさかリストラ……
 心の中で信じてもいない神と仏に救いを求めていたところ、朝から疲れた顔を見せる小守が溜め息混じりに口を開いた。
「総務部、総務課第二グループ、瀧元楓子さん」
「……はい」
「あなたに来週から秘書課へ異動してもらう」
 言い放たれた言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
 ――え。これって内示?
 今は二月中旬、たしかにそろそろ組織変更と人事異動の検討が始まる時期だ。しかし一般職の自分は去年、総務部へ異動したばかりなので想像さえしていなかった。加えて言うなら、内示は文章で受け取ることがほとんどだ。人事部長が直接口頭で伝えるなど聞いたことがない。
「あの、これは打診ですよね?」
 私の意向を確認して欲しい、との淡い期待を言葉に乗せたのだが、すぐさま久賀に否定された。
「すまないが決定事項だ。瀧元さんには嶺河室長の第二秘書に就いてもらう」
 もっとも関わり合いになりたくない人物の名前を出され、上司の前だというのに不満を隠すことなく顔に出す。おそらく自分の顔には「やりたくありません」とキッパリ書かれているだろう。
 それを読み取った小守と久賀は顔を見合わせ、なぜか強く頷き話し出した。
「じゃあ、彼女はもらってくから」
「はい。引継ぎは今週中に終わるよう調整します」
「はあー、これで落ち着いてくれるといいねぇ」
「瀧元はフォロー役が得意なので、秘書としてもうまくやってくれるでしょう」
 いまだに固まる楓子を置き去りにして、上役たちが話をまとめている。
 ごくりと口内に溜まった唾液を飲み込み、彼女は勢いよく挙手した。
「あの! なぜ私なのでしょうか! もっと適任の方が他にいると思われますっ!」
 本音では声を大にして「そんな仕事やりたくないです!」と叫びたいところだが、社会人意識というか社畜根性が発揮されて控えめに問いかけておく。
 すると小守は疲れを滲(にじ)ませながらも晴れやかな顔つきになった。
「実はね、嶺河室長の第二秘書がなかなか定着しないんだよ」
 MCⅡの役員秘書には二人が付き、第一秘書は経営補佐役にふさわしい総合職の男性が就任する。上司と共に経営戦略、全社戦略を立てる右腕的存在だ。ダイバーシティを推進する自社でも、このポジションに女性総合職が指名されたことはない。
 それに対して第二秘書はすべて一般職の女性だ。彼女たちは上司の事務と雑務を一手に引き受ける、いわば〝秘書〟と聞いて思い浮かべるステレオタイプな存在。
 嶺河が取締役に就任して八ヶ月の間に、その女性秘書たち全員が使い物にならなくなったという。
 そこで楓子は首を傾げた。
「使い物にならなくなったとは、どのような状況でそ(・)う(・)判断したのでしょうか?」
 職場放棄したとか? と、会社員としてはあるまじき行動を思い浮かべて軽く混乱していたら、上役たちは素早く目を合わせて胡散(うさん)くさい笑みを浮かべた。口を開いたのは小守の方だ。
「いろいろあってね。嶺河室長が第二秘書の交代を強く望まれているんだ」
「それは秘書課の方々が、嶺河室長の要求するレベルに達してないということでしょうか。それでしたら私ではとても彼女たちの代わりは勤まらないと思います」
 第二秘書は事務と雑務担当ではあるが、彼女たちがいなければ多忙なボスの仕事は回らないとも言われている。自社では業務改革や組織改編で部署が廃止となるケースもあるけれど、秘書課が存続し、役員一人に二人もの秘書が付いているのは必要とされているからに他ならない。
 その役目を担う秘書たちのプライドは高く、いい意味で仲間たちと切磋琢磨(せっさたくま)していると漏れ聞く。そのような競争意識や向上心を常に抱える人々に比べたら、自分はぬるま湯に浸かっている状況だ。
 しかし上役たちは引き下がらない。
「大丈夫、君にならできる。無理だと思う人を推薦したりはしない」
 秘書課長から第二秘書候補の相談を受けた小守が適任者を探したところ、久賀が楓子の勤務態度や真面目な性格を鑑(かんが)みて推薦したという。
 ――何よけいなこと、してくれたんですか……
 恨みを込めて上司を睨(にら)んでも、久賀はどこ吹く風といった様子だ。
「嶺河室長の秘書は英語が堪能(たんのう)な人じゃないと駄目なんだ。海外とのやり取りも多いからね。その点、君は適任なんだよ」
「いやでも、英語ができる一般職女子なら他にもいますし……」
 このままでは嶺河の秘書にされてしまう。焦る楓子が引き攣(つ)った笑みでお断りしたい旨を伝えるものの。
「瀧元さんのように、嶺河役員の秘書役に喜ばない子は貴重なんだよ。君以外にも秘書候補は何人かいたんだけど、どうも違うって感じでねぇ。給与も多少上がるからどうか受けて欲しい」
 そう言い置いて小守は席を立ってしまった。すでに決定事項になっていることを察し、楓子は心の中で重い溜め息を吐き出す。
 ――もう、どうでもいい……
 久賀から、「明日には辞令が出されるから」と告げられ、彼女は軽く頭を振って自席へ戻った。

     §

「――嶺河室長、こちらが第二秘書候補の履歴書と今期の面談記録、人事評価シートです」
 パソコン画面を睨みつけていた嶺河は、第一秘書の声で我に返ると眉間を指先でグリグリと強く押した。
「ようやく決まったか。仕事はできそうか?」
「さすがにそれは何とも言えません。ですがかなり評価はいいですよ。人事部長と総務課長のお墨付きです」
 すると嶺河の形のいい唇に皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
「俺はこの会社に来てから、他人の評価ってやつを信じられなくなった。人事部長と総務課長が、自分の息のかかった社員を送り込んでくる可能性もあるだろ」
「お気持ちは分かりますが、そうなると誰も頼ることができませんよ」
 ある程度は妥協してください。と、第一秘書の黒(くろ)部(べ)が悲しそうな声で話す。
 苦笑を見せる嶺河は部下へ右手を差し出した。黒部がすぐさま秘書候補の個人情報を差し出す。
 嶺河は履歴書にある顔写真と名前をセットで見た途端、既(き)視(し)感(かん)に襲われて眉を顰(ひそ)めた。
「……何か、お気に障(さわ)ることでも?」
 上司の表情をめざとく認めた部下も怪(け)訝(げん)な顔つきになるが、嶺河は首を左右に振る。
「いや。なんか気になるような……いやでも、会った記憶はないし……」
 うーん、と思い出せずに悩む上司の珍しい様子に、黒部の方が興味を持ったのか履歴書をのぞき込む。彼の方はすぐに気がついた。
「嶺河室長の出身高校と同じですから、在学中にお会いしたことがあるのでは」
「えっ」
 学歴の欄を指されて嶺河は部下の指先に注目する。自身の母校でもある、愛(あい)知(ち)県内のトップレベルの進学校の名が記されていた。
 嶺河の視線が生年月日の欄へ移動する。――俺より二歳下……三年生のときに会ったことがあるのか。
 その途端、記憶の底から懐かしい顔が浮かび上がってきた。履歴書の添付写真よりも幼く、はるかにメイクの濃い顔が。
「ああ……、思い出した」
 嶺河の唇が弧を描き、面白いおもちゃを見つけたかのような薄笑いを浮かべる。女子社員たちが騒ぎ立てる、「優しそうで素敵なイケメン」のイメージとは程遠い腹黒い笑みに、黒部は思わず眉間を押さえた。
「……お知り合いでしたか? それなら彼女は秘書候補から外しましょうか」
「いや、いい。面白そうだし」
「面白そう……」
 部下がものすごく微妙な顔つきになった。
「使えるなら長く使うし、使えなければ替える。それだけのことだ」
 悪(あく)辣(らつ)な笑みを引っ込めて評価シートを眺める上司の様子に、厄介なことにならなければいいがと腹心は心の中で溜め息を吐いた。


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