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異世界パン屋さん 騎士様に魔法のパンを食べさせるお仕事です!?

江本マシメサ / 著
山下ナナオ / イラスト
ISBNコード 978-486669-241-8
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/10/28
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

《前世でも今世でも美味しいパンは、人生を変える!?》
前世でパン屋の娘として生まれ、今世でもパン屋として生を受けたユッテ。そんな彼女が偶然、美味しく体力を回復させられる魔法のパンの作り方を編み出した! それを魔法の薬を売る〝路地裏魔法薬店〟に持ち込み、前世風の菓子パンや惣菜パンなどで展開したところ大繁盛! ……したのはいいけれど、以前拾った行き倒れ、もとい超絶マイペースな魔法騎士リヒャルトがしょっちゅう店にいりびたり、毎度あーんまでさせられているのはなぜ!?

立ち読み

 うつむきつつトボトボ歩いていたら、路地に人が倒れ込んでいるのを発見してしまった。
「え、やだ! どうして?」
 慌てて駆け寄り、声をかける。
「あの、大丈夫ですか!?」
 倒れているのは、男性だ。外套の頭巾を深く被っているので、年齢まではわからない。
「う……ん」
 意識はあるようだ。ホッとしたのもつかの間のこと。男性は膝をぎゅっと折り曲げ、お腹を抱え込む。
「どうかしましたか!?」
「……いた」
「え?」
 怠そうな、けだるげな色を含んだ声。うまく聞き取れなかった。耳を近づけ、男性の言葉を聞く。
「お腹が、空いた」
「お腹が、空いた、と? も、もしかして、空腹のあまり、ここに倒れ込んでいたのですか?」
 男性はゆっくりと頷く。一気に脱力した。
 だが、油断はできない。栄養失調で亡くなる人だっているのだ。
「あの、何か召し上がりますか?」
「大丈夫、だから」
「大丈夫じゃないです!」
 前世の記憶があるせいか、疲れている人やお腹が空いた人は放っておけない。
 私の作ったパンをお食べと、鞄からポーション入りの魔法のパンを取り出す。生地が破けてカスタードクリームが漏れていたので、売り物にならないと除けていたものだ。 
「よろしかったら、この魔法のパンを食べてください、食べてください。きっと、元気になるはずです」
「魔法のパンって?」
「元気になれるパンです」
「元気になれる、パン……」
「今、食べられますか?」
「たぶん」
 返事をしたものの、起き上がりそうにない。パンを食べる元気も残っていないのか。
 仕方がないので、食べさせてやることにした。一口大にちぎり、口元へと持っていく。
 男性は口を開き、パンを食べた。
「こ、これは――!」
 ポーションの効果が現れたのか。真っ青だった頰に、赤みが差したような気がする。しかし、起き上がろうとしない。まだ、気力が回復しないのか。二口目もちぎってあげたら、そのまま食べる。
「あの、いかがでしょうか?」
「おいしい」
「よかったです」
 声からして、まだ若い男性のようだ。
 三口目の催促か、男性は口を開く。もう、十分元気になっているような気もするが、まあいいかとちぎって与えた。男性は横たわったまま、もぐもぐとパンを食べる。
 四口目も、ちぎって与えた。なんだか、だんだんと小動物に給餌しているような気分になっていた。
「なぜ、食事を抜いていたのですか?」
 外套の質感は上等だ。お金がなくて、空腹状態になったのではないだろう。
「忙しくて、気がついたら二日経っていた」
「二日も、食べていなかったのですか? 死にますよ!」
「死んでも、誰も気にしない」
「気にします! 生きてください!」
 どうしてこう、自分のことなのになげやりな感じなのか。心配になる。
 露出している手は、健康的な成人男性よりも細いような気がした。きっとこれまでも、忙しいからと食事を抜くことが多々あったのだろう。
「食事は絶対に食べてください。このままの生活を続けていたら、長生きできませんよ!」
「別に、長生きなんて、しなくてもいいんだけれど。周囲も、望んでいないし」
 何かワケアリなのだろうが、生に対してそっけない態度であることが妙に引っかかる。
 普段、他人に意見なんてしないのに、ついつい口出ししてしまった。
「生きたいのに、生きられない人だっているのですよ。そんなこと、言わないでください」
「そうだね。ごめん」
 謝られて、ハッと我に返る。なぜ私は初対面の男性に、説教をしているのか。母親じゃないんだからと、恥ずかしくなってしまった。
「まだ、パンを食べますか?」
「うん、食べる」
 食べてくれるのはいいけれど、なぜ自分で食べない? 
 説教以前に私はなぜ、初対面の男性にパンを食べさせているのか。それも横たわったままの。
 自分で食べろとパンを押しつけることもできるが、直接食べさせないと食事を放棄してしまいそうな雰囲気があったのだ。
「これが最後の一口です」
 すべてのパンを与えたあと、ようやく男性は起き上がった。
 ここでやっと、ホッとする。私の魔法のパンが、人を救った。喜びがこみ上げてくる。
 男性は頭巾を外し、深々と頭を下げた。
「ありがとう。危うく、路地裏で餓死するところだった」
「いいえ」
 男性の容姿を見て驚く。年頃は二十歳前後だろうか。どこからか風が吹き、美しい白銀色の髪がさらりと揺れる。春の新緑を思わせる切れ長の目は、吸い込まれそうなくらいきれいだ。容貌は信じられないくらい整っているが、表情は無としか言いようがない。まるで、人形のようだ。ただただ、感情の読めない瞳を私に向けていた。
 手足がすらりと長いのは、座っていてもわかる。神は、この男性に二物も三物も与えたようだ。
 ついでに餓死寸前まで食べ物を口にしないというような残念な部分を与えることで、生き物としてのバランスを取らせているのか。よくわからない。
 そんな彼にじっと見つめられると、どうかしたのかと聞きたくなる。それは外見がいいからというよりも、腹を空かせた捨て犬のごとき、放っておけないオーラを感じるからだろう。
 なんだろうか、彼に対するこの懐かしさにも似た感情は。私は前世で、腹を空かせた犬でも拾い、飼っていたのか。記憶が完全でないので、思い出せない。
 思考の渦の中に入り込みそうになっていた私に、男性は問いかける。
「君、名前は?」
「ユッテ・リードレ、です」
「ユッテ。君は、命の恩人だ。心から、感謝する」
 ごくごく自然な動作で手をすくい取られ、男性は私の指先に口づけする。柔らかい唇が触れたところから、燃えるように熱くなっていくのを感じた。
 こんな扱いなどされたことがないので、あたふたしてしまう。心臓がドキドキどころではなく、ドカンと跳ね上がったような気がした。
「ユッテの魔法のパン、すばらしいね。倦怠感がすごかったのに、一気に体が軽くなった。何か、魔法がかけてあるパンなの?」
「いえ、パンに不完全ポーションを混ぜているのです」
「ポーション入りのパンだって? ありえない。ポーションなんて入っていたら、苦くて食べられるわけないのに」
 鞄から瓶入りのポーションを取り出し、男性へ差し出す。
「これが、私の作ったポーションなのですが」
「君は、パン屋で、魔法使いでもあるの?」
「ええ、まあ」
 男性は私の作ったポーションを手に取り、一気に飲み干した。すると、今まで無だった表情が、驚きに染まっていく。
「なんだ、これ。苦くない。これを、ユッテが作ったと?」
「はい。ポーションは、苦いものが普通みたいですね」
「そう。でも、どうしてこんなふうに?」
「私も、よくわからなくて。出稼ぎをするために王都にやってきて、ポーション作りを行っていたのですが、不完全なポーションしか作れなくて、クビになってしまったのです」
 男性は顎に手を添えて、何かを考えるそぶりを見せている。
 初対面の男性に、いろいろ話しすぎてしまったかもしれない。早めに、退散したほうがいいだろう。
「えーっと、お元気なようですので、私はこれで」
「待って」
 手を握られ、引き留められてしまった。
「僕の名はリヒャルト・シュタインフェルト。君のポーションについて、詳しく知りたい」
「詳しく、というのは?」
「なぜ、不完全ポーションしか作れなかったのか、さらに、なぜ苦くないのかを、知りたい」
 それは、私も知りたいことである。
「ここの近くに、僕の師匠が経営している『路地裏魔法薬店』がある。そこで、話を聞かせてくれないか?」
「わかりました」
「ありがとう」
 シュタインフェルトさんは私の手を握ったまま、スタスタと歩き始める。小さな子どもではないので、手を握っていなくてもついていくのに。
 前世を含めて、異性と触れ合った記憶などなかったので、非常に落ち着かない。相手が年若く、美貌の青年というのもあるのだろうけれど。
 路地裏をどんどん先に進むと、裏通りに出る。人の目もあるので、手を繫いでいることがよりいっそう恥ずかしくなった。
「あ、あのシュタインフェルトさん、手を、離してください」
「リヒャルトって呼んで」
「リ、リヒャルトさん、手を繫がなくても、ついていきますので」
「逃げられたら困るから」
 そう言って、手を離してはくれなかった。どうしてこうなったと、心の中で頭を抱える。
 リヒャルトさんの師匠様のお店は裏通りをまっすぐ進み、狭い路地を入った先にあった。
 薄暗い道の先に、太陽の光が差し込んでいる二階建ての建物が見えてきた。
「あれが、師匠の店」
「はあ」
 蔦が全体を覆うように絡んだ煉瓦造りのお店で、隠れ家みたいな雰囲気がある。ドアノブには、営業中の木札がかけてあった。扉を開くと、カランカランと鐘の音が鳴った。
「わ……!」
 店内に入ってすぐにカウンターがあって、背後にある棚に魔法薬がずらりと並んでいた。カウンターのショーケースに入っているのは、高価な上位ポーションだ。古き良き、街の薬屋さんといった雰囲気である。
「師匠、いる? 師匠!」
「うるさい。言わずとも、出ていく!」
 リヒャルトさんの呼びかけに対し、ぴしゃりと言い返したのはしわがれた老人の声。店の奥にある扉が開く。出てきたのは、杖をついた長い白ひげを生やしたおじいさんだった。足下までも覆う外套をまとっており、薬屋というより賢者といったいでたちである。
「一人ではないのか? どうした? ついに、結婚でもするのか」
「そう見える?」
「今まで女子を連れてきたことなどないからな」
「彼女はユッテ・リードレ」
「ふむ。なかなか可愛い娘ではないか。祝福するぞ」
 祝福と聞いて、話が間違った方向へ進んでいることに気づく。リヒャルトさんは無表情のまま、誤った情報を正そうとしない。なんてマイペースな人なのか。慌てて訂正した。
「あの、違います。私は、先ほどリヒャルトさんに出会った者です」
「なんだと!?」
 リヒャルトさんの師匠様は、顔を真っ赤にしながら怒り始める。
「お前は、なぜきちんと説明せんのだ!」
「勘違いしたのは、師匠だし」
「したらしたで、すぐに誤解を解けばいいものの!」
「時間が解決すると思っていた」
「そんなわけなかろうに! お前はバカなのか!?」
「バカではないと思って、生きているけれど」
「お前みたいなのを、バカというのだ!」
「そう。これから覚えておくよ」
 リヒャルトさんは我が道を行くというかなんというか、のんびりとした独特の空気感がある。師匠様が怒るのも無理はない。
「彼女は僕の婚約者ではなくて」
「知っておる。そこから先を、早く説明するのだ」
「せっかちだな」
「お前は他の者より、のんびりしすぎている。三倍速で生きろ」
「無茶言うなあ……」
 あくまでも自分のペースは崩さず、本題を話し始める。
「師匠に、調べてほしいものがあって」

◇◇◇◇◇

 薄暗い中、魔石に点した灯りを頼りに箒でお店の前を掃いていると、誰かが全力疾走で駆けてくる。赤い髪をぐしゃぐしゃに乱し、怒りの形相を浮かべるのは、キルギトスの工房長、エッグハルトだった。供を引き連れ、こちらへ走ってやってくる。
「お前――!! 絶対に赦さんぞ――!!」
「ヒッ!」
 驚いた。エッグハルトの声が、幼い少女の声になっていたから。
 身を竦めていたら、サン・フラワーさんとリトルヒマワリ妖精がお店から飛び出してくる。私を守るように、前に立ってくれた。
「なんだ、その化け物は!?」
 幼い少女の声で問いかけてくる。迫力には欠けるが、別の意味で恐ろしい。震える声で質問に答えた。
「よ、妖精さんです」
「はあ!? 化け物にしか見えないのだが!!」
 サン・フラワーさんが一歩前に踏み出すと、エッグハルトは小さな悲鳴をあげて後ずさる。
「な、なんなんだ、お前らは!」
「同じお言葉をお返しします」
「お、俺は、お前らのせいで、幼女の声しか出ぬ体になってしまったのだぞ!?」
「私達は、何もしていませんが」
「しただろうが!」
 したことと言えば、一つしかない。投げ込まれた呪いを、そのまま術者へ返しただけだ。
「もしかして、幼い少女の声になる呪いをかけていたのですか?」
「……」
 沈黙は肯定を意味する。エッグハルトは他人への呪いをそのまま受けてしまったようだ。
 自業自得である。私達は何も悪くない。「クソが!」と悪態をついても、幼い少女の声なので迫力は皆無だ。呪い返しを受けてそんな声になったのだと気づくと、笑えてくる。
「お前、本当に、赦さないからな!」
「あなたに赦してもらうことなんて、何一つないと思うのですが」
「よくも、のうのうとそんなことが言えるな! 証拠は、ここに押さえている」
 そう言ってエッグハルトが部下から受け取った証拠は、魔法のパン、バゲットだった。
「この魔法のパンとやらには、うちの魔法薬の製作技術が使われたポーションが含まれている。先日、解析班が特定したのだ。お前は、うちの職場で習った知識を勝手に使って、商売していた。それは、赦されることではないだろう」
「たしかに、キルギトスで習ったポーションを使って、魔法のパンを作りました。しかし、習った技術を他で使ってはいけないという決まりは、ありませんでした」
「そんなこと、わざわざ言わなくても、わかることだろうが!」
 日本のように、就業条件が厳しく定められているわけではなかったのだ。だから、その点を責められる筋合いはない。
「お前は、ポーションの盗用だけでなく、優秀な従業員も引き抜いただろう?」 
「マーニャさんとリジーさんのことだったら、解雇後に採用しただけです」
「働いているころから、声をかけていたんだろう? いきなり、二人が物申しに来た時から、怪しいと思っていたんだ。こちらから辞めさせるように、画策していたのだろう?」
「違います!」
「まあ、いい。詳しい話は、工房で聞かせてもらうぞ」
「お話しすることは、ありません!」
「こっちはあるんだよ。おい、やれ!」
 屋根の上から飛び下りてきたのは、武装した男達だった。ざっと見て、十人くらいいるだろうか。部下だけでなく、戦力となる男も引き連れていたとは。
 リトルヒマワリ妖精は、戦う気だ。葉っぱの手を、シュッシュと前に突き出している。サン・フラワーさんも、拳を握って戦闘態勢でいた。花の妖精なのに、戦えるのか。
 しかし、相手の数が圧倒的に多い。エッグハルトの部下を含めたら、二十人以上いるだろう。
「お前が工房についてくれば、危害は加えない。どうする?」
「私は――」
「ユッテ、ついていくことなんてないよ」
 それは、聞き慣れた声だった。エッグハルトや部下がいる場所よりも後方から、聞こえてきた。
 ボロボロになった外套の、頭巾を深く被る姿には、見覚えがあった。眦から、涙が滲み出てくる。
「誰だ!?」
 深く被っていた頭巾を外すと、リヒャルトさんの顔が見えた。元気そうで、ホッとした。
 しかし、彼は思いがけない名前を口にする。
「名乗るほどの者ではないけれど、一応名乗っておくよ。僕の名は、リヒャルト・ルードヴィヒ・シュトラウス・ド・シェーラブルク」
「あ、あなた様は!?」
 エッグハルトが驚愕の声をあげる。私も、驚いた。
 リヒャルト・ルードヴィヒ・シュトラウス・ド・シェーラブルク――それは、魔法騎士隊の隊長であり、この国の第三王子の名前だ。まさか、リヒャルトさんが王族だったなんて。
 リヒャルトさんの名前を聞いた時、第三王子と同じ名前だと思った。名前が発表された時、同じ年に生まれた男児の多くは『リヒャルト』と名付けられたのだ。それから数年は、リヒャルトと名付けるのが流行ったと聞いていた。だから、リヒャルトさんもきっと、第三王子の名を拝借して命名されたのだろうと思い込んでいたのだ。
 エッグハルトはすぐさま地面に片膝をつく。部下や、雇った男も続く。私も、地面に膝をついて頭を垂れた。
「見覚えがある顔だな。エッグタルト、だったか」
「あ、あの、エッグタルトではなく、エッグハルトです」
「どっちでもいいけれど。エッグハルト、お前はユッテの作った魔法のパンを、技術の盗用だと言っていたが、あれは、お前の作るポーションとは異なるものだ。盗用と言えない。その前に、僕が作ったポーションを無許可で作り、販売していたことに対しては、どういうふうに考えている?」
「そ、それは……!」
 驚いた。ポーションを考案、開発し、完成させたのはリヒャルトさんだったようだ。エッグハルトの肩は、畏れからかガタガタと震えていた。
「も、申し訳ありません!」
「赦さない、と言ったら?」
「わたくしめは、どうなるのでしょうか?」
「禁固刑、かな?」
「それだけは、ご勘弁を!!」
「だったら、騎士隊のために働いてもらおうかな」
「どんなことでも、いたします!」
「今日から、騎士隊が使う魔法薬を専門的に作るんだ」
「は、はい。承知いたしました!!」
 リヒャルトさんはエッグハルトに近づき、胸ぐらを摑んで顔を上げさせる。
「二度と、ユッテには近づくな」
「も、もちろんでございます。ユッテ様には、近づきません!」
 黙ったまま、手を離す。エッグハルトは地面に倒れ込んだ。
「いつまで地面に這いつくばっているんだ。早く、帰るんだ」
「は、はい⌇⌇!」
 エッグハルトは必死の形相で、走り去っていった。部下や、雇った男達も同様である。
 事件は、丸く収まった。なんだか脱力して、立ち上がることができない。
「ユッテ」
 リヒャルトさんは私の前にしゃがみ込み、淡く微笑みながら手を差し伸べてくれた。
 何も知らないままの私ならば、喜んで手を取っていただろう。リヒャルトさんが王族であると知ってしまった今は、そんなことなんてできない。
 なかなか手を取らないので、リヒャルトさんはだんだんと真顔になっていく。私の気持ちなど察してくれそうもないので、はっきり伝えた。
「あ、あの、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。怖かったでしょう?」
「それは――あっ!」
 リヒャルトさんは私の体を引き寄せ、横抱きにして抱えてくれた。俗に言う、お姫様だっこというやつだ。
「あの、あの、私、大丈夫です。自分で歩けるので」
「大丈夫じゃなかった。ふにゃふにゃだった。可哀想に」
 リヒャルトさんは私に頰ずりし、ため息を一つ落とす。
「まさか、遠征に出かけている間に、ユッテに酷いことをしていたなんて。エッグハルトの奴、絶対に赦さない。連れ去られる前に、帰ってくることができてよかった。本当に」
 お店の中には、ネイヴール様がいた。
「遅かったな」
「思っていた以上に、規模の大きなスタンピードだったんだ」
「ご苦労だった」
 そういえば、ネイヴール様は何者なのだろうか。王族であるリヒャルトさんに対して、遠慮のない物言いをしている。
「師匠、エッグハルトのせいで、正体がバレちゃった」
「みたいだな」
 私をお姫様だっこしたまま、真面目な話に入るのは止めてほしい。まずは、下ろしてもらわないと。
「ユッテ、師匠――ネイヴールは、元宮廷魔法使いの主席で、僕の大叔父なんだ」
「ご、ご親戚、なのですか!?」
 王子であるリヒャルトさんの大叔父ということは、前国王の弟であるということ。だから、二人は遠慮のない会話をしていたのだ。
「ネイヴール、今日、ユッテをお休みにしてもいい?」
「いいぞ。店番は、私がしておこう」
「ありがとう」
「あ、あの、大丈夫、大丈夫ですので!」
「ユッテは黙っていて」
 問答無用で、二階の寝室まで運ばれてしまった。どうしてこうなったのか。
 リヒャルトさんは私を寝台に座らせて靴を脱がしたあと、片膝をついた体勢のまま言った。
「ユッテ、お願いだから、今日一日、ゆっくり休んで」
 ここまで言われたら、従うしかない。 重たい体を、横たわらせる。
 なんだか、体が酷く疲れていた。思い返したら、リヒャルトさんが王都を出てから、一度も休んでいないことに気づいた。リヒャルトさんが戻ってきて、問題が解決して、気が抜けてしまったのだろう。なんとも情けない話だ。
 リヒャルトさんは外套を脱ぐ。ボロボロの外套の下に着ていたのは、騎士隊の制服だ。胸には、杖をくわえた竜の紋章がある。青い詰め襟の上着には、金のモールが施してあり、ひと目で上級士官だとわかった。 
 きっと、隠したまま付き合いたかったのだろう。眉尻を下げ、決まりが悪そうに話しかけてくる。
「ユッテ、驚いた?」
「驚きました。なんとなく、着ている服の素材や、普段のふるまいから、貴族であることは予想していましたが」
「黙っていて、ごめん。正体を明かしたら、ユッテは遠慮して、世話を焼いてくれなくなるって思ったんだ」
 目が合った瞬間、リヒャルトさんは顔を伏せたけれど、声が震えていた。胸が痛んだが、この機会を逃すわけにはいかない。どんどん踏み込んだ質問をする。
「私じゃなくても王族なんて、世話をする人は大勢いるのに……。でもどうして、一人で路地裏に倒れていたのですか?」
「普段は、人払いしているんだ。独りが、好きだったから」
「命を狙われたりしたら、どうするつもりだったのですか?」
「殺されても、いいと思っていたんだ」
 顔を上げたリヒャルトさんの瞳は、虚ろに見えた。どうして、そんなふうに考えてしまうのか。ぎゅっと、胸が締め付けられる。
「リヒャルトさ……」
「ユッテと出会うまでは」
 私の名を口にした瞬間、リヒャルトさんの瞳に光が宿った。じっと、熱い眼差しが向けられ、彼は助けを乞うように囁いた。
「ユッテ、お願いだから、ずっと、傍にいてほしい」

◇◇◇◇◇
 リヒャルトさんから手紙が届けられる。封筒には珍しく、王家の家紋である竜が彫られた封蠟印が押されてあった。いつも、暗号文字の手紙をやりとりする時は、押していないのに。
「あれ、これ、リヒャルトさんの文字ではないですね」
「あ、はい。わたくしめが、か、書きまして」
 今回の手紙は副官であり、連絡係を務める騎士に代筆を頼んだようだ。
 彼はリヒャルトさんの周囲で働く者の中で、もっとも気の毒な人だろう。王族の副官を務めるようなエリート騎士なのに、リヒャルトさんが人嫌いなために彼ばかりをこき使うのだ。
「いつも、お疲れ様です」
「い、いえ……」
 早急な用事だというので、開店準備中ではあったけれど、今ここで開封する。
 なんでも、急にスタンピードが発生し遠征に行くことになったので、ユッテ・ポーションと魔法のパン、それと、可能であれば上位ポーションを準備して、中央通りの路地裏で待っていてほしいと書かれてある。
「えっと、遠征に行くので、魔法薬と魔法のパンが早急に欲しいと?」
「は、はい!」
 よほど急ぐようにと言われているのか、副官さんはソワソワしている。
「用意ができたら、中央通りの路地裏に、持ってきて、いただけたらなと」
「わかりました」
 いつもだったら荷物は引き取りに来てくれるのに、私に持ってくるように頼むなんて。よほど、人手が足りないのか。
「ど、どれくらい、準備にかかるでしょうか?」
「一時間、くらいでしょうか」
 幸い、魔法のパンは多めに作っている。久しぶりに、中央広場で路上販売をしようとしていた分だ。それを、リヒャルトさんへ持っていけばいいだろう。
「では、一時間後、お待ちしておりますので。よ、よろしくお願いいたします」
 副官さんは回れ右をして、ピュウッと風のように走り去った。彼も忙しくて待っている暇はないのだろう。
 上位ポーションの持ち出しは、ネイヴール様の許可が必要だ。地下の実験室に行って、リヒャルトさんに渡していいか聞きに行った。
「ネイヴール様、ちょっとよろしいですか?」
 実験室の扉を叩きながら、名前を呼ぶが反応はない。何度か続けて呼んでいたら、別の部屋で作業していたマーニャさんが顔を覗かせ、ネイヴール様について教えてくれた。
「ジジイだったら、さっき出かけたぞ。なんか、大発見だ! とか叫んで、興奮した様子だった」
「そうだったのですね」
 どうしようか。勝手に在庫を渡すことはできない。
 しかし、上位ポーションが必要な怪我人が出ている可能性がある。私の所持金で上位ポーションを買い取るという形にして、届ければいい。請求書を作って、あとでリヒャルトさんに支払いをしてもらえば問題ないだろう。
 店番は、サン・フラワーさんとリトルヒマワリ妖精に任せる。
 急いで、魔法薬と魔法のパンをカゴの中に詰め込んだ。
「よっこらせっと。では、行ってきます」
『マスター、気を付けるのだぞ』
「はーい」
 お店の前には、すでに行列ができている。今日も忙しい日が始まりそうだ。ささっと渡して、すぐに店番に戻らなければ。
 裏口から出て、中央広場を目指す。
 ユッテ・ポーションが二十本、上位ポーションが十本、加えて魔法のパンがどっさり入ったカゴは地味に重たい。額の汗が、頰を伝って落ちていく。
 なんとか中央広場へたどり着いた。そして、リヒャルトさんと出会った場所である、路地裏へと入り込む。
 副官さんが、先に来ていた。
「あ、すみません。お待たせして」
「い、いいえ」
 副官さんは顔を真っ赤にして、びっしりと汗を浮かべている。走ってここまで来たのだろうか?
「あの、大丈夫ですか?」
 目は血走り、肩は微かに震えていた。明らかに、様子がおかしい。
 手が差し出されたので、カゴを渡す。
「す、す、す」
「す?」
「すみませんっ!」
 副官さんが謝った瞬間、羽交い締めにされた。口元も、分厚い布で覆われる。
「むぐう!?」
 一瞬、何が起こったのかわからなくなる。しかし、様子がおかしかった副官さんと、拘束された自らの状況、二つを照らし合わせると、おのずと何が起こったのか察してしまう。
 おそらく、私は今から誘拐されるのだろう。
 以前、マーニャさんが言っていた。怪しい男が店を覗きに来ているから、一人で行動するなと。
 てっきりエッグハルトの手の者だと思っていたので、警戒を怠っていたのだ。
 しかし、私を誘導した副官さんは、どうしてこんなことをしたのか。目で訴えても、副官さんは震えながら涙を流すばかりだ。
「へへ、ご苦労なこった。早く、それを渡せ!」
「あ、あの、あの、ロベリアは、本当に、返していただけるのですか!?」
「そっちのカゴと交換だ」
 身を捻って背後へ視界を移すと、もう一人覆面を被る別の男がいた。男は拘束したドレス姿の女性に、ナイフを突きつけている。
 彼女はおそらく、副官さんの恋人か何かだろう。
 きっと、女性を殺すと脅された結果、リヒャルトさんの手紙を偽装して、魔法薬と魔法のパンを持ってここへ誘導することになったのだろう。彼も、被害者だ。
 カゴを手渡したあと、副官さんは殴られる。打ち所が悪かったのか、失神してしまった。背後で、女性の声にならない悲鳴があがった。
「この場で人質を解放するわけないだろうが、バカか!」
 副官さんにも縄が巻かれて縛られ、口元も布で覆われる。
 私の目にも布が巻かれ、周囲の状況を把握することができなくなった。
「こっちに来い!」
「むぐぐ!!」
 強引に体を引かれ、どこかへと連れ去られてしまった。


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