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JK文庫_カバー決定

禁断ロマンス

妃川 螢 / 著
朝南かつみ / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-269-2
サイズ 文庫本
ページ数 264ページ
本体価格 本体685円+税
発売日 2020/02/18

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内容紹介

愛人としての役目を、果たしてもらおうか
財界の名家・鬼柳院家次男・咲人は、社命でロシアに赴き、新興財閥のトップであり、ロシアマフィアのボス・アランに協力を仰いだ。闇を纏う男アランは、清廉な姿勢を崩さない咲人に愛人契約を提示する。気丈に振舞う咲人だが『愛人は大人しく甘えていればいい』濃密に与えられた愛撫と、肉襞を割る熱塊の快楽に翻弄された。誰にも愛されなかった咲人は、自分の居場所を見つけたかのように男に全てを曝すが……。
誉れ高きロシアマフィアのボス×御曹司の溺愛。朝南かつみラフ掲載!
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

鬼柳院咲人(きりゅういん さきと)

財界に名を轟かせる鬼柳院家次男。アランから愛人契約を持ちかけられて……。

アラン・ローゼンフェルド

新興財閥トップでありながら、ロシアマフィアのボス。咲人に興味を持つ。

立ち読み

пролог

 物心ついたときには、すでに母の視線は自分を捉えなくなっていた。
 父には、抱かれた記憶すらない。
「おまえがこんな顔で生まれなければ」と母は言った。
「私の子ではない」と父は言った。
 ではなぜ自分はここに存在しているのか。
 なんのためにここにいるのか。
 幼いころからずっと疑問だった。
 ただ兄だけが、小さな手をぎゅっと握って、傍にいてくれた。
 己の存在意義を確たるものにする言葉は、何ひとつかけられはしなかったけれど、それでも唯一のよりどころだった。
 存在意義を探して、敷かれたレールの上を、ただ黙って歩く人生。
 逆らえば、すぐさま足元は崩れて、二度と修復がきかない。その危険性を、ずいぶん早いうちに自分は認識していたように思う。
 必要とされたくて、ここにいていいのだと言われたくて、ただただ必死だった。
 己を殺すことは、そのための第一歩であって、惜しむべき事柄ではなかった。
 なぜなら、人並み以上の結果を残してさえ、自分は正しく評価されないから。―父は、自分を振り向いてくれないから。
 母は、最期まで己の不幸のみを嘆き、夫の横暴を罵り、息子の心痛に目を向けることなく逝った。
 哀しかったけれど、少しホッとしたのを覚えている。
 次こそ、この次こそ、求められた以上の結果を示せば、父は振り向いてくれるだろうか。
 自分はここにいていいのだと、思えるだろうか。
 そんなことばかり、考えてきた。今も、考えている。
 ほかに生き方を知らなかった。
 それ以外に生きる意味があるなんて、知らずに生きてきた。―極寒の地を踏むまで。

1 ─один─

 正式なアポを取りつけたはずだった。
 だというのに、散々待たされた挙句、やっと姿を現した交渉相手から謂れのない侮蔑の言葉を浴びせられたとあっては、特別気の短い性質でなくとも、さすがに気色ばむというものだ。
「今度はまた毛色の変わった男娼を送り込んできたものだな。その趣味はないと言ったはずだが?」
 北国には珍しい濃い色の金髪と、対して冷ややかな色味の碧眼。サイドへゆるく流された金糸が一房二房額に落ちかかり、退廃的な色を濃く見せる。ひと目で質の良さがうかがえるロングコートに身を包んだ長身は、外気の冷たさをまとったまま、咲人の前に立った。
「日本人か」
 長い指に頤を摑まれ、くいっと顔を上げさせられて、上から威圧的に睨めつけられる。
 細められた碧眼に滲むのは、あきらかな揶揄だ。
 ―男娼!?
 あいさつをする間さえなかった。とんでもない勘違いをされて、咲人は濃く長い睫毛に縁取られた大きな瞳を見開く。
 たしかに咲人は、骨組みの細い華奢な体格で、肌理細かな白い肌といい、指通りのいい艶やかな黒髪といい、幼いころにはズボンをはいていても少女に間違われた整った容貌をしているが、生まれゆえの品位に加えて立場なりの上質な品を身につけているから、はなやぎを売る人間独特の艶のようなものとは無縁だ。それが「毛色の変わった」と評された部分なのかもしれないが、だからこそ自分を男娼と勘違いするなど、ありえないことだ。
「……っ!? 私は……っ」
 カッと色をなしたものの、違うと返す隙も与えられなかった。
「帰れ」
 短く放たれた高圧的なひと言が、説明を口にしようとした咲人の唇を強張らせる。それほどの迫力があったのだ。
「時間の無駄だ」
 人の話を聞こうともせず背を向ける男に、それでも咲人は懸命に追いすがる。
「話を……」
「報酬が欲しいのなら支払ってやる。さっさと消えろ」
 咲人を強引に売り込みにきた男娼と誤解した交渉相手の男は、まったく取り合わず、それどころか、そんなに欲しいならくれてやるとばかり、買ってもいない男娼相手に金を恵んでやろうとすらするのだ。
「私は仕事の話をしにきたんです!」
 たまりかねて叫べば、
「留学生か? その歳で仕事をはじめるのにはよほどの理由があるのだろうが、やめておくことだな」
 日本人が若く見えるとはいえ、社会人になって数年経つ咲人を学生と間違えた上、せっかくロシア語が話せるのだから別の仕事を見つけろ、とアドバイスまでして、そのまま目の前を通り過ぎて行こうとする。
 埒が明かないと判断した咲人は、自分がなんのためにここにいるのかを、端的に表す言葉で男を呼びとめた。
「お待ちください! ヴォール・フ・ザコーネ!」
 広大なロシアの地に跋扈するそうした組織において、トップ・オブ・トップを意味する呼称。通常「ヴォール」と略されることの多いそれは、勝手に名乗ることを許されない、限られた人間にだけ与えられた呼び名だ。
 だがそれは、逆効果でしかなかったらしい。男の足を止めることはかなったが、それだけだった。
「……っ!」
 振り返った美しい相貌は、闇をまとった悪魔のそれに似て、咲人の細い身体を硬直させる。
 返された声は、先ほどまでの呆れと茶化した色を消し、不快の色を強めていた。
「軽々しくその呼び名を口にするな。―死にたくなければな」
 たしかにその肩書を持つはずなのに、いったい何が逆鱗に触れたのか。その世界の常識を知りもしない素人が、軽々しく口にするな、という意味だろうか。
 だが、わかりやすい恫喝の言葉が、逆に硬直を解いて、咲人は長い睫毛を瞬く。「死にたくなければ」と最後に付け加えられた、脅しとしか思えない言葉が、むやみに踏み込むなという忠告に聞こえて、それがおとなしい外見に隠された咲人の負けん気に火をつけたのだ。
 案内人の制止の声も聞かず前にまわり込んで、男の足を止める。
 その行動が思いがけなかったのだろう、男はわずかな驚きと不快感とともに碧眼を眇めた。
「鬼柳院咲人と申します。あなたにお願いがあってまいりました。―ヴォール」
 軽々しく口にするなと諫められた呼び名を、あえて使う。こちらの覚悟を知らしめるために。
「鬼柳院?」
 事業を営む者なら、その名を聞いてひっかからないわけがない。たとえここが、異国の地であったとしても。
 案の定、その中心に見上げる咲人を映した瞳が、ゆるりと見開かれる。身体の横でぐっと拳を握り、大きな瞳を懸命に眇めて、その碧眼を見上げる。
「ですが、私の見込み違いだったようです。こんな―」
 受けたぶんの侮蔑を返そうなんて大胆な発想はもとよりなかったものの、それでもこのまま引き下がるわけにはいかず、精いっぱい抑えた声で、胸中に渦巻く理不尽さを吐き出す。
 その大胆すぎる発言に反射的に気色ばんだのは、言われた本人ではなく、その周囲を取り囲む舎弟たちだった。
「―こんな、人を見る目のない、思い込みの激しい方だったとは」
 残念です、と言い放つやいなや、場の空気が殺気立つ。
「貴様……っ」
「この方が何者か知っての発言か!?」
 騒ぐ周囲とは対照的に、金髪碧眼の美丈夫は、いくらかの驚きをたたえた碧眼に咲人を映したまま、無反応だった。ただ片手を上げて、騒ぐ面々を制したにすぎない。
 仔猫の爪ほどにも、報いることができない。静かすぎる眼差しの意味をそう理解して、咲人は悔しさを嚙み締めながらも慇懃に腰を折った。
「失礼します」
 踵を返す、背中に突き刺さる青い視線。
 ちょうどドアを開けて入ってきた黒髪碧眼の長髪の人物が、腰を折って咲人を見送る。だが、ほかの面々は、啞然と惚けたまま。
 ドアを閉める直前、室内から、たまりかねたように噴き出す笑い声が届いた。それから、制止の声も。
「待て」
 誰が聞くものかと、勢いよく閉めようとしたドアは、反する力によって止められて、「待てと言うのが聞こえんのか」と、すぐ後ろから笑いを含んだ声が落ちてくる。
 驚いて振り返れば、すぐ間近に、細身の咲人におおいかぶさるような格好で、金髪碧眼美丈夫の整った容貌があった。
「……っ!」
 片手でドアを支え、片手は咲人の頤へ。
 それだけで、追い込まれた獲物になった気になる。
「面白い。ならば、仕事の話をしよう。私の愛人になるのなら、どんな望みも聞き入れてやる。―どうだ?」
 男娼扱いしたあとは、仕事のために身体を売れと言う。
 正式なアポを取りつけた面会人に気づきもせず、そして今、咲人が何者か気づいたあとも、小馬鹿にした態度を変えない。
 あまりにもあまりな扱いに、咲人は恐怖も忘れて憤る。憤りがすぎて、吐き捨てる言葉すら見失うほどに。
「そういう趣味はないと、先ほどおっしゃいませんでしたか?」
 握った拳が震えた。かろうじて、先の男の言葉尻を取って揶揄を返せば、
「男娼を買う趣味はない、という意味だ」
 男色の趣味がないという意味ではなく、買うほど不自由していないという意味だと、やり返される。
「我々は家庭を持つことは許されないが、愛人なら自由だ。先の勇気に免じて可愛がってやろう」
 顎を摑む指先に力が加わって、くいっと顔を上げさせられる。碧眼と間近に睨み合った。
 愉快げに見下ろす冷えた青の瞳には余裕の色。対して、それを懸命に見返す咲人はといえば、込み上げる恐怖を懸命に呑み込み、ただ家名を背負ったプライドに縋って足を踏ん張っているにすぎない。
「興味深いお話ですが、お断りさせていただきます。それほど落ちぶれてはおりませんので」
 逃げるわけにはいかないという思いが、咲人本来の気質とはうらはらの、気丈な言葉を紡がせる。青い瞳が、さらに細められた。ゾクリと、背がそそけ立つ。
「そうか、残念だ」
 強引な行動に出られるかと思いきや、あっさりとした応え。
 だがそれは、勝ち得た獲物を嬲って遊ぶ、捕食上位者ゆえの余裕にほかならないと、つづく言葉で教えられた。
「その気になったらいつでも訪ねてくるといい。そのように、話は通しておいてやる」
 碧眼がさらに迫って、恫喝以外のなにものでもないセリフが落とされた。
 冷えた色味に見えたブルーアイは、獲物をいたぶる愉快さゆえだろうか、熱をもった色味に変わっている。だがそこに、人間らしい温かみなど微塵も感じられない。それどころか、恐怖をいやます圧倒的な熱だ。
 咲人とて、ここまできて無様に逃げ出すわけにはいかなかった。面会を望んだのがこちらであることは百も承知で、無礼な輩にそれ相応の言葉を返す。
「お心遣いには感謝しますが、不要です。どうせ無駄に終わりますから」
 男は、実に愉快そうに喉を鳴らした。咲人の顎を摑んでいた手が放される。
 ドアに手を伸ばせば、それは抵抗なく開いた。
 もはや用はないとばかり、背を向ける。その背に投げられる、挑発。
「覚えておくことだ。鬼柳院家と手を結ぼうが対立しようが、我々にとってはたいした意味を持たないのだと」
 咲人がプライドにかけて守ろうとした家名など、この地では意味をなさないと教えられる。この地の支配者によって。
 言葉は返さなかった。かわりに、無言で立ち去る。
 だがこのとき、男の放った言葉の意味を、咲人は真に理解できていなかった。男が口にするひと言が、どれほどの影響力を持つのか、も……。



 鬼柳院咲人が空港に降り立ったとき、ロシア連邦の首都モスクワは、すでに冬の気配に包まれていた。
 日本との時差は六時間。短く冷涼な夏と長くつづく極寒の冬が特徴的な北の大国は、波乱に富んだ歴史を歩み、市場経済活気づく現在へと至っている。
 世界一広い国であり、日本から一番近い外国でもある。石油や天然ガスといった鉱物資源に富み、資源に乏しい国である日本とは交易も盛んだ。また、魚介類好きな日本人の胃袋には、ロシア産の海産物が多くおさまっている現状がある。
 だが、長くつづいた共産主義による計画経済からペレストロイカによる急速な市場経済への変革において、混乱はつづき、ブラックマーケットの自由市場経済参入を許し、その結果「金を払えば手に入らないものはない」とまで言われる「賄賂天国」が出現した。ロシア国内において一年間に使われる賄賂の総額は、国家予算を上回ると言われている。
 日本企業のロシア進出が相次ぐなか、一方で撤退を余儀なくされる企業も多い。
 頻繁に行われる法改正と、取得しなければならない許認可の多さ、さらには役所の対応の遅さとに泣かされて、事業どころではなくなるからだ。
 一説には、ロシア人の仕事のスピードは、日本人の五分の一以下だとも言われる。日本においても、役所への申請の煩雑さやそれに要する時間には泣かされるものだが、その五倍と言われては、尻込みする企業が続出してもおかしくはない。
 そうした状況を打破するために賄賂が横行するわけだが、不正が発覚して社名に泥を塗ることを恐れる大企業は手をこまねき、資金源に乏しい中小企業には多額の賄賂の捻出も難しい、というなかなかに厳しい、日本企業の置かれた状況が見えてくる。
 それでも、ロシアの地が企業にとって魅力的な市場であることに違いはなく、新たな利権の取得と事業の開拓のために、多くの日本人ビジネスマンが極寒の地を訪れる。
 鬼柳院咲人は、ロシアに新たな事業展開を求める日本企業の代表として渡露した、そうしたビジネスマンのうちのひとりだ。
 だが、咲人が一介のビジネスマンと違うのは、その背に揺るぎない家名を背負っている点。財界に名を轟かせる鬼柳院家の次男として生を受け、大学卒業後、代々営む企業に就職し、修業期間を経て重役に就任した。
 すでに鬼籍の祖父は戦後の日本経済復興に尽力した人物としてその名を知られ、その跡を継いだ父は今現在会長職に就き、少し歳の離れた兄は傘下企業の社長職にあると同時に持ち株会社の重役でもある。
 実業家としての才覚を濃く引き継ぐ家系にあって、咲人も幼いころから経営を学ばされてきた。その手腕が、今、試されようとしているのだ。
 父から直々に、ロシアでの事業展開を指揮するよう命じられたのが数か月前のこと。モスクワ支社の面子総入れ替えという異例の事態は、前任者の不手際が父―会長の不興を買った結果らしい。
 新たな人事とプロジェクト、急ごしらえの組織編成によってモスクワ支社は再スタートを切ることになった。
 だが、そもそも予想されたことではあったが、ロシア経済は先のとおりの状況で、まったく埒が明かない。
 そんな折、以前からロシアへ出張の機会の多かった新規プロジェクトの主要メンバーでもある部下のひとりが、あらゆる人脈を駆使して、さる人物へのアポを取りつけてきた。
「金を払えば手に入らないものはない」と言われるロシアだが、その一方で、一度交友を結んだ相手のためには尽力を惜しまない気風もある。政治にも司法にも信用のおけないこの国では、困った事態に陥ったときに頼れるのは、「友」であり「仲間」だけなのだ。
 そうした数少ない伝手を使って、閉塞的な状況を打破するために部下が渡りをつけた相手は、幾種類もの鉱山を有し、数々の観光産業を開拓し、国外にも事業を展開させる、土地の名士にも名を連ねる男。
 表向き新興財閥を名乗る、その実ブラックマーケットの支配者―ロシア・マフィアのボスだったのだ。



 自分の不始末は、自分の手で決着をつけなくてはならない。
 とはいえ、己が招いた事態の困難さを、咲人はここ二週間あまりの間に、嫌というほど痛感させられていた。現状を嚙み砕いて報告してくれる、部下の言葉が耳に痛い。
「アラン・ローゼンフェルド氏は、ダイヤモンド事業にも影響力をお持ちです。ヴォールとしては一番の若手ですが、一番の事業家だとも言えます」
 ロシアのダイヤモンド採掘量は、一社で実に九十九パーセントを堅持する。
 そもそもは大統領令によって設立された政府系企業だからだが、マフィアに名を連ねる男が、そんな事業に一枚嚙んでいること自体が、日本人の感覚ではありえないことだ。だが、それがまかり通るのが、ロシアという国なのだ。
「つまりは、彼の不興を買ったらしいと噂が流れただけでこの状況、ということですか」
 咲人の指摘に、部下は黙って頷いた。
 まだ早い時間だというのに、会議室にはどんよりと重い空気が満ちている。
 本社のロシア開発室長の肩書を持つ咲人のほか、支社長以下モスクワ勤務を言い渡されて間もない面々の顔に浮かぶのは沈鬱な色。
 当然だろう。突然の辞令でたいした下準備の間もなく寒い国に赴任させられた上、その指揮をとるのが血筋だけで重役の椅子に座る若造で、さらにマフィアの大ボスの不興を買ったとなったら、もはや八方塞がりだ。
「となるとこれが、最後の砦、ということになりますね」
 もうひとつ、別の部下がアポをとりつけてきた伝手がある。正確には、ロシアで仕事がしたいのなら力を貸そうと向こうから声をかけてきたらしい。
 こんなふうに、上手い話を逃すまいと耳ざといのも、どんな手段を使っても最後に手にしたものが勝者たるという、この地に根付く価値観ゆえだ。こうやって、複雑な歴史を持つこの国の人々は、生き抜いてきたのだ。
「調べたところ、たしかに手広く事業を営んでいますし、警察や地方役人に顔が利くのも本当のようです」
 事業の規模そのものより、役人への伝手のほうが重要だ。
「こちらはどうやら、鬼柳院の名に価値を見出したようですね。ローゼンフェルド氏が興味を示さなかったことで、逆に勝機ありと踏んだのかもしれません」
「鵜の目鷹の目で、チャンスを狙ってるんでしょうね。逞しいなぁ」
「ただし、マフィアよりヤバい、ただのチンピラかもしれない可能性も高いですけどね。マフィアは組織だって統制されていますが、チンピラはただの窃盗団だったり恐喝犯だったりしますから逆に厄介です」
 部下たちの論にひとつひとつ頷き、咲人は決断を下す。
「えり好みはしていられません。拙い相手だった場合には、即刻取引を中止すればいいことです。会うだけ会ってみましょう」
 決断に、一同も頷き返す。
 ロシアでの事業開拓には、日本国内や欧米諸国での常識は通じないと、ロシアの地を踏んで間もない面々も、すでに理解している。郷に入れば郷に従え。培った価値観を捨てても、その土地なりのやり方で進めるよりほかない。
「正式なアポイントをとっていただけますか?」
 咲人の指示に頷いて、ひとりが会議室を出ていく。
 頼みの綱に渡りをつけた彼は、ものの十五分で一同のもとへ戻ってきた。

2 ─два─

 指定されたのは、交渉相手が経営する日本食レストランだった。
 貸し切りにされているらしく、広い店内にほかの客の姿はない。中央に用意された大きなテーブルには、大人数の会食のセッティングがされている。
 その真ん中あたりに通されて、咲人も、そしてついてきた部下ふたりも困惑した。仕事の話をしにきたはずなのに、このパーティのような様子はいったいどうしたことだろう。
 そんな疑問を余所に、店員は勝手にグラスや料理を並べはじめる。それなりに綺麗に盛られた皿には、日本食らしきものが載っていた。
 ぐるっと視線を巡らせれば、料理だけでなく、どれもこれも「もどき」ばかりの店だ。
 店員が着用している制服は、着物と韓国の民族衣装であるチョゴリを足して二で割ったような奇天烈なものだし、内装も日本文化と大陸文化とがごちゃまぜになっている。彼らいわく握り鮨だと説明された皿には、海老とキムチとチリソース。
 日本人だって、各国の料理を日本人向けに勝手にアレンジして食べているのだから責めることはできないが、それにしてもこれが日本食だとモスクワ市民に信じられているのだとしたら、ひととおり全部否定してまわりたい気持ちにさせられる。
 そんな、この場においてどうでもいいことに思考を支配されつつ、啞然としていたら、レストランの入り口が開いて、数人の男が姿を現した。
 向かいの席に、先頭を歩いてきた髭面の厳つい風貌の男が腰を下ろす。片言の日本語で「ハジメマシテ」とあいさつをした彼はたしかに、これまでにも日本人と付き合いがある様子だった。
 だが、この話を持ってきた部下と支社長を伴った三人で交渉の場に立ったこちらに対して、向かいに男が腰を下ろしたあと、さらに複数の人間がレストランに入ってきて、用意されたテーブルに見知らぬ何者かも知れぬ男たちが次々と着席をはじめる。総勢十名。
 さらには、入り口のドア横と窓横や壁際にも強面の男が立つにいたって、咲人はこれがただの交渉の場ではないことを察した。
 緊張を帯びた空気。囲む男たちの口許に浮かぶ威嚇と威圧の笑み。この話を持ってきた部下は、この時点ですでに震えている。支社長も蒼白だ。
「あなたは運がいい」
 正面に座る、たぶんこの場で一番格が上らしきコズロフと名乗った髭面の男は、そんなふうにきりだした。
「我々が屋根になれば、何も怖いものはない。この地で思う存分ビジネスができますよ」
「屋根」という言葉が、咲人にすべてを理解させた。「屋根」とは、彼らの隠語で用心棒のこと。ヤクザの世界で「守り料」とか「みかじめ料」とか言われるもののことだ。
 ただのチンピラではない。男はたしかにマフィアのようだ。
 ロシアにおいて、マフィアとチンピラの違いは明確だ。窃盗犯も、どれほどの罪を重ねようとも、自分たちは泥棒であってマフィアではないと言い張る。何が違うのかといえば、マフィアは人殺しをするが、それ以外の犯罪者たちは、その一線を絶対に越えない、ということらしい。
 つまり、不興を買えば消されかねない事実が目の前にあるということだ。そのかわり、うまく渡り合えば、彼らは最強の味方ともなる。
 だが、この国においては、マフィアとひとくくりにできないのが、ややこしいところだった。
「彼はヴォールではありません」
 彼らの口ぶりから、傍らに座る部下があることに気づいたらしい。声を震わせながらも、ほかに聞こえないようにそっと耳打ちをしてくる。
「たぶんアフトリチェートと呼ばれる新興マフィアのボスです。―危険です」
 呼称などどうでもいい、金さえ儲かれば人殺しでもなんでもやる、武装マフィア。日本のヤクザが暴力団へとなり果てたようなものだろうかと、咲人は想像した。
 ロシアには、マフィア台頭以前からヤクザと呼ばれる組織も存在する。まさしく日本語の『ヤクザ』が海を渡ったものだ。彼らの間には、日本の極道同様、仁義も任侠も存在した。だが、経済の変貌にともない闇社会も変化して、凶悪な組織も台頭するようになった。
「規律を守って組織を動かすヴォールとは比較になりません」
 つまり、先に接触を持とうとした若きヴォール―アラン・ローゼンフェルドと同じに考えてはいけない、ということ。「絶対に彼らの要求を呑んではいけません」と忠告する部下の掠れた声は、己の浅慮を責め、悔いる色に満ちている。
 だが、この場に来ることを決めたのは咲人だ。責任は彼にではなく、自分にこそある。
「ロシア語を話せる人間はいねぇのか?」
 日本語でこそこそしていたのが気に障ったのか、男の声に荒さが混じる。覚悟を決めた咲人は、しゃんと背筋を伸ばし、男に向き直った。
 対等の取引なら交渉の余地もあるが、取引の名を借りた脅しに屈するわけにはいかない。失敗の許されないプロジェクトを、彼らの食い物にされるわけにはいかないのだ。
 己の責任において、この場を切り抜けなければ。
「我々は、あなたがたの力を必要としていません。残念ながら、今回のお話はなかったことに」
 流暢なロシア語は、そのニュアンスまで正しく伝えたはずだ。場の空気が変化したのを、たしかに感じ取った。
「ろくに話もしちゃいない。酒も美味い料理もこれからだってぇのに、ずいぶんはっきりと言いきるんだな」
「用件を端的におっしゃっていただきましたので、こちらもそのように対応させていただきました」
「考慮の余地はない、と?」
「はい」
 きっぱりと言いきれば、髭におおわれた男の口許が気味悪く歪む。
「まったく、世間知らずのお坊ちゃまは、これだから困る。貴殿らもお困りなのでは?」
 ククッと挑発的に笑って、咲人の両脇に腰を下ろす部下ふたりを見やる。
「鬼柳院家のご次男、この仕事が上手く運ばないと、いろいろと拙いのではありませんか?」
 ―……っ!?
 鬼柳院の名に価値を見出しているだけあって、さすがに調べているな…と、テーブルの下で密かに拳を握る。汗が滲むのがわかった。
「ご忠告痛み入ります。ですが私の進退と事業とは別の話。守るべきは、社名と社員の生活ですので」
 だから、脅しに屈して用心棒代を支払うつもりはないと、ひたすら突っぱねつづける。少しでも態度をゆるめて金額の話に触れようものなら、それこそ相手の思う壺。今度こそ逃げられなくされてしまう。
 柔和な相貌の咲人を、そもそも侮っていたのだろう。毅然と揺るぎない姿勢を示されて、マフィア側の態度がたちまち硬くなる。殺気を帯びた気配を察して、両脇の部下がビクリと身体を震わせた。
 咲人だって、怖くないわけではない。けれど、自分が怯んだら、要求を呑まざるをえなくされてしまう。コズロフと名乗った男が、咲人の背後―鬼柳院家に目をつけているのだとすれば、問題はモスクワ支社内ではとどまらないだろう。責任者の立場で、咲人は何よりもそれを阻止しなくてはならないのだ。
「後悔することになるぞ」
「……」
 テーブルについていた男たちが、そのひと言を合図に立ちあがる。それぞれの懐には、拳銃が仕込まれているはずだ。
「ひ……っ!」
 部下のひとりが悲鳴を上げた。もうひとりは、完全に硬直して動けなくなっている。
 それでも咲人は、コズロフの要求に屈しようとはしなかった。



「見上げた根性だ」
 その声は、思わぬ方角から届いた。コズロフの斜め後ろ、レストランの入り口からだ。
「……!? なんだ!?」
 駆け寄った店員と思しき男が「今日は貸し切りですので」と説明しようとして、一瞥で制される。
 先頭に立つ長身の主は、ロングコートを肩にかけ、革手袋に包まれた手をスラックスのポケットに突っ込んだ格好で、テーブルから少し距離を置いて立つ。
 黒装束と、薄暗い店内にあって色味を落としている金髪とが、まるで地獄からの使者を思わせて、その場の空気を凍らせる。
 背後に従えてきた黒服の男たちの手には、おのおのの好みだろう、さまざまな武器が携えられていた。サブマシンガンもあれば、口径の大きな拳銃もある。この距離なら、一発であの世行きだ。
 咲人に銃を突きつけようとした、一瞬の隙をつかれたコズロフ配下の舎弟たちは、半ば腰を浮かせ、その手を武器にかけながらも、それ以上身動きが取れない。苦々しい顔で、冷や汗を滴らせている。
「……! ローゼンフェルド……!?」
 思わずその名を口にして、呼び捨てにしてしまったことに気づき、慌てて口を噤んだ。青くなった咲人にチラリと一瞥を投げたものの、若きヴォールの興味は、咲人より手前にいる男に向いているらしい。
「ずいぶんと愉快な余興だな、コズロフ」
「な、なんで、あなたが……っ」
 組織を率いる者同士、格の上下があるらしい。これがヴォールとアフトリチェートの差なのだろうか、コズロフは真っ青になって、あとずさった。配下の者たちは、促されて、武器から手を離し、頭の後ろで両手を組む。
 いつ銃弾が発射されても、いつ血飛沫があがっても、おかしくはない身じろぎすらままならない緊張感漂う空間で、ただひとり、金髪碧眼の美丈夫だけが、悠々と歩みを進める。その靴音は、咲人の傍らで止まった。
「……っ!」
 後ろから腕がまわされて、顎を摑まれる。会うのは二度目だというのに、こんな扱いを受けるのはもう何度目だろうか。
 そうして咲人の痩身を拘束して、男はコズロフに視線を向けた。見えずとも、すぐ後ろに絶対零度の威圧感を滲ませた碧眼があることは明白だ。自分に向けられたものではないはずなのに、カタカタと身体が震えはじめる。
「これは私の手がついている」
 くいっと咲人の顔を上げさせ、背後から覗き込むようにして、視線を合わされる。案の定そこには、冷ややかなアイスブルーの瞳があった。
「え? し、しかし……」
 興味はないとあしらったのではなかったのか? と、コズロフは掠れた声で言い募る。だからこそ、自分がおこぼれにあずかろうとしたのであって、横取りするつもりなど毛頭ないのだと、蒼褪めた顔で懸命に言い訳を並べ立てていた。
 革手袋に包まれた指が、咲人の首筋を撫で下ろし、耳の後ろをくすぐる。
「戯れ事だ。日本人は恥じらいが深いからな、いたぶればいたぶるほど、いい表情をするようになる。―こんなふうに」
 再び顎を摑まれて、顔を上げさせられたと思ったら、眦に温かいものが触れた。男の唇だと気づくのに、しばしの時間を要する。
「……っ! なにを……っ」
 抵抗しようにも、さほど強く拘束されているわけではないのに、身動きが取れなくて、好きにされているよりほかない。コズロフ一味に見せつけるように、黒革の手袋に包まれた掌が咲人のジャケットの胸元に滑り込んで、薄いワイシャツの上から胸をまさぐった。
「やめ……っ」
「怒るな。今夜はうんと可愛がってやる」
 だから機嫌を直せ、と耳朶に甘すぎる声が囁かれる。そのわざとらしさに気づきながらも、肌が粟立ってしまうのは、どうしようもなかった。
 コズロフのもとに赴いた咲人の行動を、痴話喧嘩の末の戯れだということにして、その手の内に取り込もうとしているのだ。興味などないと言ったくせに。
「ちょ……っ、放……っ」
 冗談ではないと抗えば、肌にさらにきつく食い込む、長い指。
「契約の契りはすんでいる。おまえは私のものだ。此度はずいぶんと楽しませてもらったが、戯れもすぎれば興ざめだぞ」
 甘く、恐ろしい声が、もはや芝居なのか本気なのかわからぬ恫喝を囁いて、咲人はビクリと肌を震わせる。強張った身体はやすやすと男の腕に捕らわれて、身体がふわりと浮いた。
「手間を取らせたな。いずれこの埋め合わせはしよう」
 呆然と佇むしかないコズロフに一瞥を投げて、傍らで微動だにせずライフルを構えていた長髪の腹心を従え、レストランを出ていく。
 放心状態の部下ふたりは、男の舎弟に引きずられて、外に停められていた車に放り込まれた。
 咲人を腕に抱いたまま車の後部座席に乗り込んだ男は、硬直する咲人の頤を捉えると、碧眼を眇め、ため息をひとつつく。
「これだから世間知らずは困る」
 吐き捨てられた声には、先ほど耳にした妖しいほどの甘さは微塵もなく、ただいくらかの呆れが滲むのみ。
 だが、その程度で先の恐怖が消えるはずもなく、咲人は男の膝の上、横抱きにされた格好のまま、全身に驚愕と困惑と羞恥とを張りつかせ、固まっているよりなかった。


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