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枯れた薔薇_カバー1

婚約破棄を申しつけられています

鬼頭香月 / 著
三浦ひらく / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-076-6
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2018/02/27
フェアリーキスピュア

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内容紹介

身代わり令嬢、初恋こじらせ王子に翻弄される!?
失踪した王女の身代わりとして、魔法大国の王子オスカーと政略結婚するよう厳命を受けてしまった貧乏伯爵令嬢のマリーは、顔合わせ早々オスカーから婚約破棄を突きつけられてしまう! ところが、恋愛初心者ながら必死にアプローチをするマリーに、「俺の婚約者は、あいも変わらず可愛いな」と情熱的に迫ってくるのはどうして!? 彼から初恋の人の面影を求められていることを知って、マリーの心は千々に乱れる。恋に落とすつもりが、身を偽ったまま自分が恋に落ちてしまったなんて……。しかし国同士の利権争いから、オスカーがマリーとの政略結婚のせいで、命を狙われる事件が起こって……!?

立ち読み

心臓がドキドキとうるさく、マリーは落ち着きなく部屋をうろつく。
 南塔にある私室だ。ピンク色で揃えられたその可愛らしい部屋には、ふんわりと甘い香りが漂っている。それは窓辺や机の上に飾られた花の香りかもしれず、はたまたマリー自身に振られた香水の香りのせいかもしれなかった。
「どうしよう……なんだかよくないと思うの……」
 本日の着つけを終え、髪を梳きたいエイミーは、ブラシを持ってじいっとマリーを見つめる。
「……先方の方が一枚も二枚も上手のようでございますね」
「そうなの! 全然わけがわからないわ!」
 カメリア色のドレスをまとった彼女は、シャンデリアの光を弾く白銀の髪を、ふわっと揺らして振り返った。銀糸の髪は、降り積もった雪が太陽の光を弾くがごとき煌めきを生んだ。
 その姿に目を細めたエイミーは、彼女の元へ歩み寄り、手を摑んで鏡の前に引きずっていく。
「ねえ聞いてる、エイミー?」
「聞いております。お嬢様が初めての経験の連続に狼狽し、動揺し、ときめきを覚えていらっしゃるのは重々承知しております」
「と、ときめいてなんていないわ!」
「――はい。御髪を整えますので、鏡を見てください」
 部屋に備えつけられた鏡台の前に座り、そこに映った自分の顔を見たマリーは、両手で顔を覆って俯いた。
「もう、嫌だ……っ」
 鏡に映ったのは、意味もなく潤んだ瞳と、紅潮した頰の、恋する乙女のような顔をした自分だ。
 ――そんなんじゃない! 私は恋なんてしていないわ……っ!
 エイミーはどうでもよさそうなため息を吐いて、髪を梳き始めた。
 その異変は、オスカーがマリーの元へ毎日通うようになってから――マリーが籠絡作戦を実行して、十日くらい経ってから始まった。
 オスカーは、毎度意地悪な質問を欠かさなかった。アナベルについて詳しく話せと尋ね、マリーが黙り込むのを楽しそうに眺める。途中でマリーが唐突に話題を変えようとすると、彼は割とスムーズに応じてくれた。それは大変ありがたく、彼を籠絡しようと果敢に挑戦するも、マリーは毎度、己の甘さをひしひしと感じた。――彼は、手慣れた男性だったのである。
 彼は普通の会話になると、端々で優しい微笑みを見せるのだ。それだけでなく、毎回なんの気なしに、といった風情でどこかしらに触れた。耳朶に、頰に、彼の質問で半泣きになった目尻に、と。
 その上、部屋を訪ねてくる際は花を持参し、贈り物も欠かさない。マリーが好物の話をすれば、数日後に贈ってくれたり、体調を気にして体を温める茶を贈ってくれたり。現在彼女がまとっている香水も、彼からのプレゼントだった。
 一緒に歩いていたらびっくりするほど自然にエスコートをされ、手を取られるたびに心臓がドキッと跳ねる。
 オスカーとの交流は、籠絡せねばならない方が籠絡されているのでは、と混乱する、実に巧みな技の連続であった。

 昨日も、マリーはオスカーと一緒に、本宮から一つ外れた位置にある、『紅の塔』に行っていた。その塔は、東西南北四つの塔で構成された本宮と外回廊で繫がっており、屋上部分が多目的広場になっている。茶を飲んで過ごしても、王都の景色を眺めてもよい場所だ。
 夕陽が綺麗だから夕方に行け、とブラッドリーに命じられてこの場にオスカーを誘ったマリーは、その光景に素直に感動した。
 夕陽は、大地の近くから赤、黄、オレンジ、紫、濃紺と何色にも空の色を変化させて、鮮やかだった。
「わあ、凄い……。本当に綺麗」
 屋上のぐるりにめぐらされた柵に手を置いて、マリーは魅入る。同じく隣で夕陽を見ていたオスカーが、こちらを見下ろす気配がした。同意を求めて目を向けると、刺繡も見事な茶色地の上着と白地のベストを着た彼は、頰杖をついてにこっと微笑んだ。
「そうですね。ですがまるで、初めてこの塔に登ったようなご感想ですね、アナ」
 マリーはぎくっと頰を強張らせる。正真正銘初めての場所だったが、王宮で過ごしてきたアナベル王女なら、初めてのはずはなかった。
 本日も抜け目なく意地の悪い質問をされたマリーは、背筋に冷や汗を滲ませ、ぎこちなく笑う。
「……まあ、気のせいですわよ……」
「そうですか」
 オスカーは手のひらで口元を覆い、夕陽の方に顔を向ける。
 柵に凭れて夕暮れを眺めるオスカーの横顔は、前髪がさらさらと風になびき、様になっていた。
 マリーは彼の腕を見つめる。本日のシナリオは、彼と腕を組み、体をぴったりとくっつけて、もっとお傍にいたい、お部屋を訪ねてもいい? と甘えねばならないというものだった。
 部屋に招かれたら、その後はオスカーが望むまま、抵抗せず身をゆだねろと書かれていた。
 ――あの悪魔は、未婚の清廉な女性にどこまで求めるのか。
 でもとりあえず、前半の課題はこなそう、とマリーは手を伸ばす。毎度毎度寸前でかわされるので、この日もどうせ上手くできないだろうな、と諦めの境地で動いた彼女は、驚いた。なんと今日は、あっさり彼の腕に手を回せてしまったのである。
 ――やったわ、奇跡よ……! 初めて彼の腕に触ったわ……っ。
 喜びに瞳を輝かせた彼女は、はたとこちらを見下ろしたオスカーと視線が合い、頰を強張らせた。
 シナリオでは、彼の腕に手を回し、体をぴったりくっつけるとあった。
 ――ぴったり……。
 ちょこっと動くだけで、体はぴったりくっついた。体というよりも、胸が触れたので動きをとめた状態である。
 さああ、と風が吹き、オスカーの前髪が優雅に揺れる。
 彼はどんな感情もない、穏やかな眼差しでマリーを見下ろしていた。
 ブラッドリーによれば、男は胸を押しつけられたら、相手の女性は自分に気があると判断する。女性の噂が一切なかったオスカー殿なら、彼の方もすぐにその気になるはずだ、と言っていたが、どうだろう――。
 彼は黙ってマリーの言葉を待っているようだった。マリーはぎこちなく微笑み、とりあえずシナリオ通りの言葉を吐く。
「も、もっとお傍にいたいわ、オスカー様……。貴方のお部屋に行っても、い、いいかしら……?」
 自分らしくないセリフに、どもってしまった。
 頰を染めたマリーに誘われたオスカーは、口角を上げる。何もわかっていない彼女は、ただ彼を見つめ返した。そして悲鳴を上げる。
「きゃわっ」
 彼はなんの前触れもなく、マリーが摑んでいない方の手で彼女の腰を抱き寄せたのだ。
 以前もされたけれど、基本的に他人に触られ慣れていないマリーは、非常に敏感だった。ちょっと触れられただけでびくっと跳ねてしまうし、そのまま引き寄せられたりしたら、悲鳴を上げるしかない。異性に抱き寄せられた経験など、オスカー以外では、皆無なのだ。
 正面から腹をくっつけるように抱き寄せられたマリーは、間近に迫ったオスカーの顔に目を見開き、凝り固まる。それを見たオスカーは、ふっと一度顔を背けて笑ってから、改めてマリーに微笑みかけた。
「いいですよ、姫。私の部屋で何をしましょうか?」
「えっ」
 ――何を……って。
 身をゆだねろ、としか書かれていなかったので、マリーに答えはなかった。頰を染めてまごついていると、彼は笑みを深め、顔を寄せてくる。
「……っ」
 何をされるのかわからず、マリーは怯えた。鼻先が触れそうな距離で、彼はぴたりと動きをとめる。そしてやんわりと微笑んだ。
「それでは、貴女の知らないことを教えて差し上げましょうか?」
「知らないこと?」
 ――それって、魔法に関すること?
 魔法に関してならぜひ聞きたいと、瞳を輝かしかけるも、オスカーがマリーの腕に触れたので、意識はそちらへ向けられた。
 オスカーは彼の腕に触れていたマリーの手を取り、すすす、と撫で上げる。
「ん……っ」
 四分丈の袖のドレスを着ていたマリーは、手首から二の腕にかけて地肌を撫で上げられ、身をすくめた。撫でられたところからぞくぞくと震えが走り、大人しく耐えていられなかった。
 続けざまに耳元にオスカーの吐息が触れ、悲鳴を上げそうになる。寸前でその声を呑み込むと、彼は吐息交じりの艶やかな声で囁いた。
「……ええ。貴方の知らない、気持ちいいことを教えて差し上げますよ……」
「――」
 色香ある口調は、ふしだらな行為を想像させた。臆病にも心臓は縮み上がり、体に震えが走る。全身が緊張し、このまま天敵がどこかへ行くのを待つ小動物の心地になった。けれどオスカーはしっかりマリーを抱き込んだまま、離さない。
 ――このままでは、危険だ――。
 マリーはすくんだ全身の筋肉を叱咤し、ヘロヘロになりながら、彼の胸を弱々しく押し返した。
「けけけ、結構です……っ」
 オスカーはマリーが思っているよりも、ずっと遊び人だったらしい。
 想い人について聞いた時は、愛しそうに、そして切なそうに話し、マリーには毎度君とは結婚しないと言っていたくせに、そのマリーと変な真似をしようだなんて、とんだ浮気者だ。
 涙目ながら、自分に現を抜かそうとしたオスカーに非難の眼差しを向けた彼女は、目を見開いた。
 今しがたマリーの耳元で色っぽく誘ってきた王子様は、柵に腕をかけ、くくく、と可笑しそうに笑っていたのだ。
「――か、からかったの……?」
 かあ、と頰を染めて尋ねると、彼はこちらを見やり、柔らかく微笑んだ。
「さあ、どうでしょうね」
 ――どっちなの……っ。
 彼の雰囲気から察するに、からかわれたようだった。マリーはむうっと口元を歪め、俯く。
 ――何よ。一瞬でも貞操の危機かと思って、怖かったんだから……っ。
 夕暮れになり、少し冷えた風が肌を撫でた。
 口を押さえて笑っていた彼は、はあ、と息を吐いて、機嫌よい顔をマリーに向ける。
「そろそろ場所を変えましょうか、姫?」
「……? もうしばらくここにいましょう?」
 ここに来てから、大した時間は経っていなかった。こんなに早く交流を終了させたら、やる気がないと、ブラッドリーに叱られる。かといってシナリオ通りにオスカーの部屋に行くのも憚られ、マリーはここがいいと首を振った。
 オスカーは神妙な顔で移動を拒否したマリーに苦笑して、上着を脱いだ。
 屋上は、風が吹いて肌寒いくらいである。上着を脱ぐ意味がわからず、怪訝に彼を見守っていたマリーは、びくっと身を強張らせた。急に彼が両腕を広げ、またマリーの間近に迫ったのだ。
 首をすくめ、ぎゅっと目を閉じた彼女は、肩が温かくなったことに気づき、瞬く。
「え……」
 自分の肩を見やり、マリーは目を丸くしてオスカーを見上げた。彼は何気ない様子で体を離し、また柵に凭れかかった。マリーの心臓が、とくりと跳ねた。
 オスカーは、ごく自然にマリーの肩に上着をかけ、離れていったのだ。
 彼はコートには言及せず、頰杖をついて微笑みかける。
「それじゃあここで、もう少しだけお話しましょうか」
「は、はい……」
「なんの話がいいかな? 魔法石が好きだと言っていたか。『星屑の滴』を今度……」
 その砕けた優しい物言いに、マリーの頰が、先ほど以上に赤く染まった。
 ブラッドリー仕込みのドレスは、肌の露出が多い。温かなオスカーの体温を持つコートに包まれ、ほっとするやら、どぎまぎしてしまうやらで、マリーは落ち着かなかった。せっかく魔法石の話をしてくれていたのに、顔も見られず、その日はうやむやの内に交流を終えてしまったのだった。


   ◇ ◇ ◇


「……オスカー様は、ご自分の命が狙われているから、婚約破棄を申し入れられたの……?」
 それなら、オスカーの慈悲で受け入れられていると考えていたマリーと彼の交流は、事実、それ以上の意味はなく、滞在期間が終われば、また婚約破棄を申しつけられて終了なのではないだろうか。
 アルフレッドがしたり顔で頷いた。
「そうかもしれないね。マゴスガラスがあれば有益だけど、ファロス王国はそんなのなくたって今の時点で最強国家だし。この滞在期間が終わったら、意中の女性を手に入れて、とっととお国に帰るんじゃない?」
 マリーの胸に、ずきっと痛みが走る。自分では、少しずつオスカーと仲良くなれている気がしていた。宴での触れ合いなど、マリーにとっては特別以外の何物でもない。けれどそれは、やっぱり彼にとっては戯れに過ぎず、初めから伴侶としては見てもらえていなかったのだ――。
 マリーは必ず――婚約破棄を言い渡される。
 家族の命を守るため、国外逃亡に舵を切らねばならない時だった。オスカーが残す滞在期間は、もう一週間ほどしかない。マリーたちに猶予はなかった。
 そう思うのに、なぜか胸が重苦しくて、顔を上げ、さあ次の場所へ、と前を向く気分にならなかった。それどころか、瞳に涙が滲んでしまって、体が凍えたように震える。
 自分が小国の姫君を演じているために、オスカーの命が危険にさらされるのは嫌だった。彼の幸福を願う自分がいる。想う人がいる彼のためにも、マリーは王宮から出て行き、消えるべきだ。
 彼を、これ以上苦しめてはいけない。――わかっているのに、どうしてだろう。
「……姉さん?」
 アルフレッドが、訝しそうに声をかけた。
 指先が冷え切っていた。自分がこんな気持ちになる理由がわからず、マリーは震える手のひらで口元を覆う。――悲しい。自分がそう感じる理由を、考えたくなかった。
 正門の方から、馬の蹄の音が聞こえた。先ほどの騎士が外に出るのか、と目を向けたマリーは、顔色を変える。正門からオスカーを先頭に、ファロス王国の一団が入ってくるところだった。
 一緒に正門に目を向けたアルフレッドが、眉をひそめる。
「ああ、今帰って来たんだ。昨日の昼から外出してたから、朝帰りだ。王都で楽しんだんだろうね」
「……昨日は、雨だったわよね?」
 マリーはさり気なく涙を拭って、弟を振り返った。雨だから会うのをやめようと言ったのはオスカーサイドだ。それなのに外出していたとは、意外である。
 アルフレッドもこちらに視線を戻し、肩をすくめた。
「外套を着れば外出くらいできるでしょ。毎日姉さんに会ってたから、たまには下町の女でも楽しみたかったんじゃないの」
「……アル。なんて品のない物言いなの。お姉様、そんなお話する子は嫌いよ」
「ひててててっ」
 マリーは眉間に皺を刻み、アルフレッドの頰をひねり上げる。弟が平然と下世話な話をする日が来ようとは、思ってもみなかった。以前はこんな話、してもいなかったのに。きっと騎士団の先輩たちが、余計なことを吹き込んだに違いない。
「――アナベル?」
「ひゃっ」
 可愛い弟が可愛くなく成長していく――と顔をしかめていたマリーは、遠くから声をかけられ、肩を跳ね上げた。布を被っているので、自分に気づくはずがないと思っていたのに、オスカーは目ざとくマリーを見つけた。
 彼は後ろからついて来ていた護衛たちに何事か指示し、自分だけ馬首を巡らせてこちらに来る。
「……来なくていいのに」
 驚いた拍子に頰を離してもらえたアルフレッドが、赤くなった頰をさすりながらぼやいた。マリーが軽く睨むと、彼は口を閉じる。
「アナベル。こんな朝早くから、外を歩いているなんて珍しいな」
 オスカーは上手に馬を操り、マリーたちの真横につけた。マリーは布を被ったまま、眉尻を下げて微笑む。
「今日は朝から晴れましたから、礼拝堂に行ってお祈りをしようかと思っておりましたの」
 驚くほどするっと噓がつけた。
 お忍びで王都へ降りていたとわかる、地味な黒の上下に身を包んだオスカーは、ちらっとアルフレッドに目を向ける。
「私服の護衛騎士と共に?」
「……僕は偶然お会いして、話していただけです」
 アルフレッドも適当な言い訳をするが、オスカーは失笑した。
「――手を繫いでな。仲のいいことだ」
「「あっ」」
 マリーとアルフレッドは同時に声を上げ、手を離す。二人は子供の頃、一緒に外出する時はいつも手を繫いでいた。王宮という慣れない場所で不安になったマリーは、子供の頃のように迷子になりそうな気持ちになって、つい手を繫いでいたのだ。
 二人の事情を知らないオスカーは、少し機嫌の悪そうなため息を吐くと、腕を伸ばす。言い訳を考えていたマリーは、急に腹に腕が巻きついてきて、目を見開いた。
「きゃ……っ」
「姉……っ」
 マリーの悲鳴に反応したアルフレッドが手を引こうとするも、オスカーはさっとマリーを取り上げ、馬の上に乗せてしまった。被っていた薄布がふわりと舞い上がり、マリーは手を伸ばす。その間にすとん、とオスカーの膝の間に横座りに置かれ、マリーは目を白黒させた。突然視界が高くなっただけでなく、手綱を握るオスカーの両腕の中に収まっている。
 オスカーは馬首を巡らせ、マリーの頭から落ちた薄布を拾ったアルフレッドに笑いかけた。
「すまないな、アルフレッド。姫は俺が預かろう」
「……お、落とさないでくださいよ!」
 大声で護衛騎士に注意されたオスカーは、はは、と大らかに笑った。
「――任せろ」
「えっ、あ……っあ……っ」
 まだ話の途中だ。早く逃亡の決断をして、荷の準備をするよう指示しないといけない。焦って遠ざかる弟と侍女を振り返るも、弟は舌打ちして諦め、エイミーはのんびりと手を振った。

 弟たちを見ていたマリーの頭上で、オスカーがふっと笑う。
「少し外出している間に、朝から男と密会とは、俺の婚約者殿は隅に置けないな」
「……そんなわけじゃ……っ」
 まるで浮気者のように揶揄され、マリーはかあ、と頰を染めた。見上げた彼は、ただからかっているのだとわかる、愉快そうな笑顔だ。だがその笑顔が異様に近く、マリーの心臓が大きく跳ね上がる。距離も近ければ、自分がオスカーの腕に堂々と触っていることにも気づき、マリーはぱっと手を離した。先日の宴ではもっと触れ合っていたが、酔っていたので何も感じなかったに過ぎなかった。
「手を離すな。危ない」
「ぴっ」
 マリーが両手を浮かせるのを見たオスカーは、さっと彼女の腰に片手を添える。
「……今日はいつもと違うドレスだな」
「え……」
 マリーの腰に触れたオスカーが、今気づいたような声音で呟いた。自分のドレスを見下ろしたマリーは、さああ、と血の気を失った。
 ――どうしよう! シュミーズドレスだわ……っ。
 ブラッドリーには、大層不評のドレスだ。同じ王族のオスカーも、感想は同じだろう。趣味の相違を理由に、即日婚約破棄を叩きつけられるだろうか。
 マリーは動揺もあらわに、口ごもった。
「あの、その、これは……っ」
 オスカーは柔らかく笑う。
「可愛いな。いつものドレスよりずっと、君に似合う」
「――」
 マリーは目を丸くして、オスカーを見上げた。彼はマリーの表情を見て、何か悪いことを言ったか、という顔をする。
「このドレスを……悪趣味だとは思われないの……?」
 心臓がドキドキと鼓動を打った。そんな男性、この世にいるはずがないと思っていた。ブラッドリーだけではない。貴族令息なんてみんな、マリーの好きなドレスを否定する。大人しく文学を愛し、刺繡を好む女性を求める。結婚したらきっと、窮屈な毎日を送らないといけないと、信じて疑わなかったけれど――。
 オスカーは怪訝そうに眉をひそめ、首を傾げた。
「そうなのか? 気に入っていないドレスなら、すまない」
「いいえ……っいいえ。……私の、お気に入りのドレスなの」
 マリーはじわっと瞳に涙を滲ませ、にこっと笑う。
 ――凄い。オスカー様って、本当に完璧な人なのね。
 マリーは泣き出したくて、たまらなくなっていた。
 話せば話すほど、オスカーは優しい人だとわかる。穏やかにマリーの話を聞いて、たとえいずれ他人となる婚約者でも、気遣いを忘れず、大切にしてくれた。一度愛した人を一途に想い続けるところも、素敵だと思う。生意気な弟の態度も、一度も咎めず許し、そして服装すら、見たままを受け入れてくれるなんて。
 ――そんな人がこの世にいるなんて、知りたくなかった。
 マリーの瞳から一滴、涙が零れた。
「アナ……?」
 オスカーが驚いて呼ぶその名が、自分の名前じゃなくて、残念だ。オスカーが自分の恋人じゃないことが、オスカーの想い人が自分でないことが、とても悲しい。
 マリーは俯いて、ふふっと笑った。
「ごめんなさい。このドレス、お兄様には不評なの。だからつい、嬉しくて泣いてしまいました」
「……俺の国に来れば、いつでも着られる」
 その何気ない言葉は、マリーを傷つけただけだった。切り裂かれるような胸の痛みを覚えながら、マリーはオスカーを見上げる。
「いいえ、無理です。だってオスカー様は、私とは結婚してくださらないでしょう……?」
「――」
 オスカーは目を見張った。己の失言に気づいた彼は、視線をそらす。
「……いや、それは」
 その態度が、彼の答えだ。決して自分を受け入れてはくれないのだと突きつけられ、マリーはまた視線を落とす。
「……王都で、何をなさっていらっしゃったのですか?」
 暗い雰囲気にさせたくなくて、マリーは話を変えようとした。しかしオスカーは身を強張らせる。そのいつになく緊張した様子に、マリーは息を吐いた。
「……想う方が、見つかったのですか……」
 それは質問ではなく、独り言に近い。オスカーは迷うような間を置いたあと、頷いた。
「まだ、当人だとは決まっていない。だが明後日、会う手配をしたところだ」
「そうですか……」
 おままごとはお終いだ。終わりの時は、近い。
 唇が震えた。しかしマリーは、涙交じりの声で、それでも素直に言った。
「どうぞ、気になさらないで。明後日お会いする方が、オスカー様の想う方であればいいと思います。……きっとその子は、とても幸福になるだろうから」
「アナ」
 視界が揺れ、またぽたりと滴が頰を伝い落ちる。オスカーが馬をとめた。彼に気を遣わせるのが嫌で、マリーは急いで涙を拭う。
「いつまでもしつこくして、申し訳ありませんでした」
「違うんだ、アナ。俺は……」
 オスカーの言葉は、それ以上続かなかった。何も言ってやれない代わりのように、彼はマリーの体に両腕を回し、抱きしめる。
「……っ」
 大きな胸に顔を押しつけられ、マリーの瞳から、涙がまた零れ落ちた。零れ始めた涙はとまりそうもなく、嗚咽が漏れる。
 ――手の届かない人に恋をするなんて、私ったらなんて馬鹿なの……。
 彼の想い人が、羨ましくてたまらない。どうして自分は、彼女じゃなかったのだろう――。
 優しく残酷な腕の中、マリーは自分の気持ちを自覚していた。
 オスカー様が好き。――だから、終わりにするの。

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