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9784908757754

傍観者の恋

ナツ / 著
あき / イラスト
ISBNコード 978-4-908757-75-4
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2017/03/27
フェアリーキスピュア

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内容紹介

かけがえのない友情と罪悪感をはらんだ、両片思いの契約結婚。「小説家になろう」不朽のラブストーリー、待望の書籍化!
レイチェルは、病弱な大親友アリシアのそばにいるために、そして何より片思いをしている彼女の弟、ノアと別れたくないために、ノアにかりそめの結婚を持ちかける。ノアが姉、アリシアに密かに想いを寄せていることを知りながら。友情と嘘と罪悪感に満ちた3人の生活。契約結婚で手に入れたのは、目のくらむような幸せと消えることのない胸の痛み……。しかし次第にノアの一見、愛情に満ちた言葉と態度にレイチェルの心は激しく揺れて……「君は俺の妻だ。かりそめだろうが何だろうが、俺の一番大事な人だ」罪悪感と共に嘘を吐き、すれ違う。抗えない恋情を募らせる二人の恋は――!?
「君が倒れたと聞いて、息が止まるかと思った。同情でも友情でもいい。少しでも俺を思ってくれるなら、そばにいることを許して欲しい」

立ち読み

「おじさんが考えているのは、君とブライアンの結婚だ。君たち夫婦を住まわせる為の屋敷をミヴェで買い取ったから、そこにアリシアを呼んだらどうかという申し出なんだよ」
「…………そんな」
 ノアは素早く腰を上げ、ぐるりとテーブルを回り込むと、私の脇に立った。
 それから、身をかがめて凍りついたように動かない私の瞳を覗き込んでくる。
「大丈夫か、レイチェル」
 約束を守り、ノアは私に触れなかった。今までの彼なら、きっと私の肩を揺さぶっていただろう。
 仮定と現実では重みがまるっきり違った。
 近いうちに、私は父の言いつけ通りの結婚をしなければならない。ぼんやりとしか描けなかった未来が、目の前に迫っている。息苦しくなり、喉元に手を当てた。
 ブライアンが夫に?
 朝起きたら彼が隣にいて、共に食事を取って。
 私はブライアンに「いってらっしゃい」を言うの?
 彼を慰め、慰められ、ブライアンの奥さんとして生きていくの?
「……出来ない」
「レイチェル」
「出来ないわ!」
 父と母のように愛し愛され、互いを忠実に支え合う夫婦が、私の理想だった。
 その理想を、きっと自分で壊してしまう。だって私はブライアンをこれっぽっちも愛していない。それどころか、愛せる可能性も探せない。ブライアンに非はない。彼はとてもいい人だ。仕事は出来るし、優しいし、包容力がある。どこにも悪い点はない。ノアではない、というただ一点を除いて。
 ノアではない男の人のものになり、身も心も捧(ささ)げるなんて、どうあっても無理だ。もっと早く気づくべきだった。こんなに話が進んでしまう前に。
 嫌だ。好かれなくていい。でもノアともう会えないなんて。ノアじゃない人の奥さんになるなんて、そんなの――。
 混乱しきった私の頰を、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
 顔を覆ってすすり泣き始めた私を見ていられなくなったのか、ノアは少し躊躇(ためら)った後、隣に座ってきた。うっかり触れないよう、きちんと距離を空けて。
「まさか、あいつに傷つけられたことがあるとか言わないよな?」
「まさか! とてもいい人よ。いつもすごく優しくて、親切にして貰ってるわ」
「じゃあ、嬉し泣き?」
 ノアはわざと軽口を叩(たた)いた。
 親しみの込められたからかい口調に、涙をこぼしながら思わず笑ってしまう。
 友人を気遣っていると、よく分かる言い方だった。それ以上でもそれ以下でもない。
 私は何度、同じ人に失恋すれば気が済むのだろう。
「嬉し泣きなら、良かったのにね」
「真面目な話、もし他に好きな男がいるんなら、おじさんに打ち明けた方がいい。きっと配慮してくれるよ。おじさんはレイチェルに甘いから」
 あなたがそれを言うの?
 奥歯を嚙み締めながら、ノアを振り仰ぐ。
 私があんまりじっと見つめるものだから、彼はたじろいだ。
 困りきった彼の表情を目にした途端、私の中の何かがプツリと切れた。
 もうどうなったって構わない。
 鋼鉄の覆いの隙間から、するりと悪魔が入り込み、ボロボロの心に囁いてくる。
 ――いい方法があるわよ、レイチェル。取引するの。大丈夫、ノアにも利があるわ。
「好きな人なんていない。どうしても結婚しなきゃいけないのなら、相手はノアがいいわ」
「……は?」
 これ以上なく驚いた顔をしたノアのおかげで、かえって心が落ち着いてきた。
 悪魔に魅入られたとしか思えないほど、私は冷静に言葉を続けた。
「もちろん本物の結婚じゃないわよ。私は意に染まない縁談に振り回されずに済む。あなたは、今まで通りアリシアの傍にいられる」
「冗談だろ。一体何いって――」
「知っているのよ」
 ぐいと涙を拭い、私は決闘を申し込むような勢いでノアの胸元に人差し指を突きつけた。
「ノアの望みは、アリシアだわ。彼女と離れたくないから、今日ここにきてミヴェの話をした。そうでしょう? 皆には知られたくない話よね」
 触れるか触れないかのところで、逆に指を摑まれる。彼の温もりに頭の芯が痺れ、その後ひどく悲しくなった。
 ノアは私の指を摑んだまま、怒りに燃えた瞳で睨みつけてきた。
「それは脅しか? ……ああ。確かに俺はアリシアを愛してる。でも、誰にも迷惑はかけてない!」
 ついに言質を取った。私の推測は間違っていなかった!
 惨めったらしい片思いが成就することはないと引導を渡された瞬間でもあったのに、胸を満たしたのは濁った達成感だった。
 彼の理解者足り得るのは自分だけだという、ひどく歪んだ満足感だった。
 私の唇に浮かんだ笑みを見て、ノアはますます困惑した。
「レイチェル――」
「知ってるわ。家族やアリシアを苦しめるつもりはないのよね? 死ぬまで隠し通すつもりなのよね? ……ねえ、ノア。よく考えてみて。どれほど手を尽くしても、アリシアは長く生きられない。その間だけでいいの。私を助けて」
 身を乗り出し、揺れに揺れている彼の瞳を覗き込む。
 ノアは火傷(やけど)したように私の手を放り出すと、いきなり立ち上がった。
 そして少し前の私のように、うろうろと部屋を歩き回り始める。くしゃりと髪をかきむしり、ノアは低く毒づいた。
「自分が何を言ってるか、本当に分かってるのか?」
「これ以上なく。……私は本気よ」
 ノアこそ、ここまできて何を言っているのだろう。
 アリシアを私とブライアンに預ければ、滅多に会えなくなるのよ。それでいいの?
 私は決めた。次は、貴方(あなた)がサイコロを振る番だわ。
「ノアに他に好きな人が出来たら、その時点ですぐに離婚する。理由は私の不貞ということにすれば、誰も貴方を責めないわ。ノアが父の会社の仕事を続けたいというなら、私が家を出ればいい」
 アリシアが亡くなった後、という台詞はあえて省く。
 それでも言いたいことは伝わったようで、ノアは軽く頭を振り、苦痛に瞳を歪ませた。
「――俺はただ、最後の一瞬までアリシアの傍にいたいだけなんだ」
「ええ。分かってる」
「だけど、君を不幸にするのは……君の幸せを奪うのは、もっと嫌だ」
 ノアの瞳には今、私だけが映っている。
 真剣な声色を心に刻みつけ、一生の宝物にしようと決めた。
 大丈夫。ノアは汚くなんてない。汚いのは、私だけ。
 貴方は綺麗なまま、これからも一途な愛情をアリシアに捧げていけばいい。
「馬鹿ね。鼻持ちならない自惚れ屋は、オースティンだけじゃないってわけ?」
 私はとびきりの笑顔をこしらえ、にっこり笑ってみせた。
「ノアのことなんて何とも思ってない。結婚に興味もない。私は自由に生きたいだけよ」
 彼は唇を嚙み締め、俯いた。
「少し考えさせて欲しい」
 やがてポツリとこぼれた言葉に、静かに頷く。彼の答えはもう分かっていた。


◇◇◇◇◇


 ブライアンはとても感じのいい客人だった。
 話題豊富で巧みな話術の持ち主でもあったので、夕食の席はより明るいものになった。
 女主人である私への手土産も欠かさないブライアンは、アビーにも評判がいい。負担にならない程度の小さな花束や、お菓子。ちょっとしたものだがどれも洒落ていて、彼のセンスの良さが分かる。
 どうやらアリシアの前でもブライアンの話をすることが増えていたらしい。
 珍しく彼女の方から「私も会ってみたい」と言い出した。
「だからね。お茶会を開くのはどうかと思って」
 寝室でノアに伝えると、彼はそっけなく「いいんじゃないか」と返してきた。
「怒ってるの? ノアが嫌ならやめておきましょう」
「なんで怒ってると思うの?」
 ノアはソファーに腰を下ろし、挑むように私を見上げてくる。
「それは……アリシアを取られるような気がして、心配なのかと」
 素直に思ったことを口にする。
 ノアは苛立たしげに髪をかき上げた。
「ああ、そうだな。好きな人を取られそうで怖いよ」
 すばやく息を吸って、胸の痛みを逃がす。
 彼と目が合いそうになったので、慌てて曖昧な笑みを浮かべた。ノアは自分がたった今私を刺したとも気づかず、続けて言った。
「ブライアンは大人だし、話も上手いし? アリシアも喜ぶんじゃないか。レイチェルみたいに」
 いちいち引っかかる言い方をしてくる。
「ブライアンと上手くいってないの?」
 気になって尋ねた私に、ノアは首を振った。
「いや。いろいろ助けて貰ってるよ。向こうの方が年も職歴も経験も上なのに、全然偉そうなとこがなくて、俺を立ててくれる」
「いいことじゃない。違うの? ブライアンが意地悪な人だったら、ちくちくつつかれてきっと大変だったわ」
「そうだけど。……レイチェルには分かんないよ」
 ノアはふい、と顔を背けた。拗(す)ねている理由が分からず、眉を顰める。
 ノアはちらりと横目で私を見ると、あーともうーともつかない唸(うな)り声を上げ、「今のなし。めちゃくちゃ格好悪い」と言った。
 よく分からないが、彼にもいろいろあるらしい。
 何はともあれノアの許可も出た。
 二人を引き合わせる為のお茶会を計画していたちょうどその時、父が発注してくれていた車椅子が届いた。
 春までに間に合えばいいと思っていたが、今で良かった。
 ゆったりした座椅子の脚部に大きく頑丈そうな車輪が付いたそれは、後ろから押せるようになっている。背凭(もた)れが長く、頭まで預けられるのがいい。ゆるやかに傾斜したデザインだから、座ったまま眠ってしまえそうだ。
 初めて見たが、使い方は簡単だった。座面のサイズに合わせてクッションを作り、より快適に仕上げる。
 おっかなびっくりのアリシアは、そろそろと車椅子に座った。足載せ台にしっかり足裏をつけさせ、具合はどうか尋ねてみる。
「いい感じよ。ロッキングチェアみたい」
「背中もしっかり後ろにつけてね。じゃあ、動かすわよ」
 いざという時の為に、トマスにも付き添って貰っている。背面側についた取っ手を摑んで押すと、思ったよりするすると動き始めた。バスケット式の乳母車のような感じだ。
「どう?」
「すっごく面白いわ」
 アリシアはくすくすと笑った。嬉しくなって、部屋中をぐるぐる押して回る。
 方向転換にはコツと力が要ったが、アリシアは軽かった。もっと重ければいいのに。私じゃとても押せないくらい、重くていいのに。すいすいと動く軽さに胸が痛んでしょうがない。
「奥さま、もうそのへんで!」
 心配そうに見守っていたトマスに止められ、試運転は終わった。
 車椅子から降りたアリシアは、足元がふわふわすると言ってまた笑った。

 お茶会は日曜日に行うことになった。
 アリシアの支度は私が取り仕切った。ゆったりした部屋着風のワンピースから厚手の長袖ドレスに着替えさせる。短い髪はピンで留め、金色のつけ毛をつけた。地毛との境目にはリボンを編み込む。化粧は必要なかった。女性の肌は青白いほど美しいとされるのだが、アリシアの頰はいつも透き通るように白かったから。
 大きな手鏡を彼女の前に掲げると、アリシアは華咲くようにはにかんだ。
「素敵な美女が映ってるでしょ?」
 私の問いかけに、アリシアの瞳が潤む。ますます美人度は上がった。
 ノアのことも喜ばせたかった私は、彼の介助を断った。うんと綺麗になったアリシアを見て欲しい。
 アリシアは短い距離なら自分で歩けるようになっている。ミヴェにきて良かったと思うことの一つだ。それが最後の灯火なのだとしても、出来ることが増えればアリシアは喜ぶから。
「きちんと立ってご挨拶したいの。普通の人みたいに」
 滅多に自己主張しないアリシアの精一杯の矜(きょう)持(じ)を、尊重したい。居間(パーラー)までは車椅子で行き、扉の前でアリシアを下ろした。
 彼女はピンと背筋を伸ばし、扉をノックした。
 すでに居間にきていた男性陣は、私たちを見ると席を立った。
 ノアもブライアンも、あっけに取られた顔でアリシアを見つめた。彼らの瞳がみるみるうちに賛美で輝き始める。
 ノアはアリシアをうっとりしたように眺め、それから私に感謝の眼差しを向けた。作戦成功だ。
 すばやく心を点検してみる。醜い嫉妬はない。どこにもない。それが嬉しくて、自分を誇りに思った。
「はじめまして、アリシア・ハーシェルです」


◇◇◇◇◇


「……レイチェル。レイチェル!」
 聞きたくてたまらなかった声が遠くから聞こえた。
 階段を踏み外したような浮遊感を覚えた直後、意識が浮上する。
 全身が燃えるように熱くて、重い。沢山の毛布が上に乗せられているような気がする。身をよじろうにも、指一本動かせなかった。
「静かにしろよ、ノア。安静にって先生が言ってただろう。とりあえず今は、熱を下げさせないと」
「分かってるよ。でも今、何かレイチェルが……」
 オースティンと、それからノアだ。瞼を持ち上げようとしたが、睫毛のあたりが微かに動いて終わる。諦めて全身の力を抜いた。
 ズキズキ痛む頭で、他に痛むところはないか探ってみた。熱のせいで体が動かせないだけで、特に外傷はないような気がする。肘と膝は痛むが、打撲と擦過傷といったところだろう。
 馬車に轢(ひ)かれずに済んだのだ、と遅れて気づいた。
 まともにぶつかっていたら、命はなかっただろう。倒れた時のことを覚えていないので、状況が上手く摑めず、思考がまとまらない。
「――もう行こう。ここにいたって出来ることはない」
「先に寝ろよ。俺はここにいる」
「はぁ」
 聞こえよがしな溜息をついたのは、オースティンだろうか。
 その後も二人は低い声で言い争っていた。次第に意識が遠のく。ストンと暗闇に落ちる前、誰かに手を握られた気がした。
 それからは泥のように眠り込んでいた。
 時折、喉の渇きを覚えて目が覚める。
「レイチェル……飲める? ちょっと待って」
 鼓膜が腫れているのだろうか。ノアの声がくぐもって聞こえる。まるで泣いてるみたいだ。
 しっかりした大きな手で後頭部を支えられ、乾燥した唇に硬く尖った吸い口が当てられた。吸いつきたかったが、上手くいかない。気管に入ったのか、激しく噎せた。嫌な音の咳がしばらく止まらない。
 ノアは低く呻き、何か呟きながら私の背中をさすった。
 疲れてしまい、そのまま眠りこもうとする。沈んでいく意識を引き止めるように、湿った柔らかなものが私の唇を塞いだ。苦しくなって口を開けると、ちょうど一口分の水が入ってくる。
 こくり、と飲み下し、息をついた。それは幾度か繰り返され、私が顔を背けるまで続いた。唇の端から溢れた水に、乾いた布がそっと押し当てられる。渇きも癒され、満足した私は再び眠った。
 人の話し声で目が覚めた時、頭痛は消えていた。
 まだ体はだるいが、熱も下がった気がする。
 うっすら目を開け、自宅の客用寝室に寝かされていることを知った。グリーンを基調とした花柄の壁紙には見覚えがある。
「それは兄さんの知ったことじゃない。俺たち夫婦の問題だ」
「正論だな。だけど兄として、弟を気にかけるのは当然じゃないか?」
 次にノアとオースティンが入口近くで言い争っているのが見えた。
 背中を向けているので、ノアの表情は分からない。オースティンの横顔は、普段通りの余裕を保っていた。
「それに俺は間違ったことを言ってない。どうせ別れるなら、必要以上に構わない方がいい。後々面倒なことになるぞ。レイチェルがやっぱり別れたくないって言い出したら、困るのはお前だろ?」
 オースティンの忠告はもっともだ。明け透けな言い様が、むしろ小気味よい。
 でも私は、縋ったりしないわ。その部分にだけ心の中で反論し、ゆっくり目を閉じる。
 ノアは何も言わず黙り込んだ。それが答えだ。
 オースティンは弟の態度が気に入らなかったのか、更に追い打ちをかけた。
「今更献身的に看病してみせるお前の偽善に、反(へ)吐(ど)が出そうだよ、ノア。栄養失調になるまで放っておいたんだ。最後まで知らぬ振りを貫いたらどうだ。妻に関心を持てないなんて、よくある話だろ。お前は別に悪くない」
「……黙れ」
「馬車が轢いてくれなくて残念だったな。別れる前にレイチェルが消えれば、彼女の遺産はお前のものだったのに」
「黙れ!」
 鈍い音が響き、続いて壁に何かが叩きつけられた音がする。
 尋常じゃない物音に、再び瞼を持ち上げた。
 オースティンが左頰を押さえながら、壁際に座り込んでいた。
 驚き、頭を起こそうとした途端、目の前がぐるぐる回る。あまりの気持ち悪さに、力を抜くしかなかった。
 ぼやけた視界の中、ノアは地を這うような声で「二度と言うな。いくら兄さんでも許さない」と吐き捨て、オースティンの襟首を摑んで無理やり立たせた。それから乱暴な手つきで彼を扉の外に押し出してしまう。
 ノアが叩きつけた扉は、大きな音を立てて閉まった。
 しばらく扉に向かったまま深呼吸を繰り返していたノアは、ハッとしたようにこちらを振り返った。慌てて目を閉じ、息をひそめる。
 ノアの靴音が次第に近づいてきた。
「レイチェル?」
 衣(きぬ)擦れの音がして、ベッドのスプリングがきしむ。ノアの視線を痛いほど感じた。
「寝てる……良かった」
 安堵に満ちた小さな声が聞こえ、遠慮がちな指が降ってきた。前髪をよけられたかと思うと、不規則な水音が聞こえ、濡れた布が額に置かれる。
「早く良くなって。……まだ俺、記念日のハンカチ、貰ってないよ」
 ノアは私の手を取り、両手で包んでしまった。
 カーペットに膝をつき、ベッドに両肘をついているような気がする。目を開けて確かめたかったが、起きていたと知られるのはまずい気がした。
 オースティンの挑発は、わざとだ。彼が本気で言っていないことくらい、ノアにも分かりそうなものだ。オースティンはノアの真意を確かめたかったのだろう。それもこれも、私が泣きついてしまったから。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 ノアは「別れない」とは言わなかったが、私の為に怒ってくれた。彼でも人を殴ったりするんだ。普段飄々(ひょう)としているノアの意外な一面だった。
 喜びが、別れの悲しみを押し流していく。
 私は今でも、どうしようもなく彼を愛していた。
「起きたら、まずは説教だからね、レイチェル。勝手に街へ行って、ずぶ濡れで倒れて戻ってくるなんて。俺の心臓を止めるつもりだった?」
 ノアは私の手を自分の頰に持っていき、強く押し当てた。
 長い間、彼はそうしていた。
 喉にせり上がってくる熱い塊を飲み下そうと、私は必死になった。
 こんな風にされたら、誤解したくなる。彼も私を好きなのではないかと、勘違いしたくなる。
 残酷な別れは、すぐそこまできているのに。
 ようやくノアが離れてくれた時は心底ホッとした。
 静かなドアの閉まる音と共に、私は目を開けた。天井に施された繊細なしっくい細工が、ぼやけて揺れた。

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