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いつわりの甘い囁き

橘かおる / 著
すがはら竜 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-295-1
サイズ 文庫本
ページ数 312ページ
本体価格 本体755円+税
発売日 2020/06/25

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内容紹介

押し倒してくださいって顔だな
「必ず君を手に入れる」大学の研究で貴重な発見をした恭巳は、素晴らしい研究成果に関わらず、慎ましやかな生活を続けていた。偶然、暴漢から守ってくれた同じ大学の小山内と気が合い、急接近し隣同士に住み始めるが「家政夫をお願いしたい」と同棲することに!? スキンシップが激しい小山内のキスはエスカレートして、優しい腕に押し倒されセックスしてしまい!? 同じ頃、大学では研究成果を狙う人物がいるとの噂があって……。不器用俺様御曹司×研究一途の大学生の溺愛ロマンス
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

青木恭巳(あおき やすみ)

大学で最先端技術を研究している。ピュアな青年。

小山内顕光(おさない あきみつ)

働きながら恭巳と同じ大学へ通っている。俺様イケメン。芙蓉電気グループ後継者。

立ち読み

「おい、この店では釣り銭をごまかす店員を雇っているのか!」
 突然怒鳴られて、レジに入っていた青木恭巳は「え?」と間抜け顔を晒した。レシートと釣りを揃えて渡し、千円札をしまったばかりだ。慌てて、画面に表示されている数字を確認した。しめて六百八十円の買い物で、釣りは三百二十円。別に間違ってはいない。
「俺が出したのは一万円だった。九千円足らないって言ってんだ」
 客の言葉に、もしかして自分は勘違いをしたのかと、恭巳は入れたばかりの札に視線を落とした。端の方がちぎれていた千円札にはっきり覚えがある。
 どうしようか、と一瞬恭巳は考え込んだ。この場合、客が思い違いをしているのか、あるいはわかっていて難癖をつけているかのどちらかしかない。サービス業でのバイト歴が長い恭巳には、客の表情や口調で、どちらなのかおよそ見当がつく。今回の客は、明らかに後者の方だ。
 となると対処の方法は、自分が負担して丸く収めてしまうか、あるいはあくまでももらったのは千円だと主張するか、だが。
 迷っている間、返事もせずにじっと相手の顔を見ていた恭巳に、ますます苛立った声がかけられた。
「おい、さっさと釣りを出せ。客を待たせるつもりか」
 恭巳の小作りの顔の中にバランスよく収まった瞳は、冴え冴えと澄み切っている。白目の部分は僅かに青みがかり、くっきりした黒瞳には潤んでいるような艶があった。一点の曇りもない恭巳の瞳に映された人間は、居心地の悪さを覚えて思わず目を逸らしてしまう。ひとを傷つけた記憶などなくても、もしかしたら知らないうちに何かしたかもしれない、と内省を強いられる気になるらしい。まして最初から悪意を持って接してきたならなおさら。いきり立って怒鳴りつけるか、すごすごとしっぽを巻いて逃げるか。
「このやろう、ばかにしやがって」
 目の前の男は切れて凄むほうを選んだようだ。
 手を伸ばして、恭巳の襟首を掴み上げる。やばいっと恭巳は首を竦めた。こうして激昂すること自体、逆に客の悪意を証明しているようなものだが、痛い思いをするこちらは堪らない。
 百七十センチにあと一センチ足らない恭巳は、ガタイのいい男に半ば吊り上げられ、苦しそうにもがいた。
 棚の整理をしていた店長が慌てて走ってきて、「お客様」とおろおろ声で呼びかけるが、男は聞こえないふりをする。一方の腕で恭巳を拘束したまま、もう一方の腕をキャッシャー内の札に伸ばしてきた。そのまま札を鷲掴みにしようとしたところを、ふいに横から延びてきた手に止められた。
「それをすると、泥棒だ」
「な、な、なんだ! てめえは!」
 揉み合う男と恭巳の側にすらりと立った背広姿の男は、男の手首を掴んだまま現金から遠ざけた。特に力を入れているようすも見せなかったが、男は「いたた」と呻きながら、しきりに手首を振っている。続いて背広の男は、恭巳の襟首を締めていた男の親指を掴み、容赦なく反対側に捻り上げた。
「わあ!」
 今度は男は大きな悲鳴をあげて、飛び上がった。
「何しやがる!」
 ズキズキと痛む手を押さえながら喚く男に、背広の男はしらっと言ってのけた。
「何って、あんたが千円出して釣りをもらうのを、隣で見ていたんだが」
「な、な……」
 パクパクと口を開けて、男は絶句する。
「なんなら警察の前で証言してもいいが」
 じろりと睨むと、男はびびったようで、
「お、覚えていろ!」
 おきまりの捨て台詞を残して、店を飛び出し夜の闇の中に消えていった。
 唖然としてそのあとを見送っていた恭巳は、目の前にとんと弁当を置かれて我に返った。
「あ、すみません」
 咄嗟にレジを打って差し出されたお金を受け取り、釣りを差し出す。
「ありがとうございましたぁ」
 マニュアルどおりに頭を下げてから、改めて目の前の男をまじまじと見た。
 夏用の薄い背広を着ている。長身だがすらりとしていて、ごつい体つきではない。きちんと掻き上げてムースで固めたらしい前髪が、はらりと何本か額に落ちているところに、鮮烈な男の色気が漂っている。切れ長の瞳が、恭巳の視線を柔らかく受け止めていた。どこか西洋人っぽい彫りの深い顔つきだが、印象はあっさりしていてくどくない。二十代半ば、やり手のエリートサラリーマン、ただし爽やか系、という印象だ。
「俺の顔に、なんかついてる?」
 高からず低からずの声が、困っている。
 恭巳はじっと見惚れていた自分に赤面し、
「あの……っ。助かりました。本当に、ありがとうございました!」
 焦りながらレジの前から出て、深々とお辞儀した。側で、まだ若い店長も頭を下げている。客の横暴を止められなかった自分を恥じてもいるようだ。
「いや、そんなに畏まられても」
 男はますます困った顔をする。男の困惑顔にはかまわず、恭巳はもう一度、深く腰を折って感謝の気持ちを表した。男はひらひらと手を振りながら、
「もういいよ。そんなにされるとここに来られなくなるから」
 と恭巳に頭を上げるように言った。
「あ、そんな。これからもごひいきに」
 慌てて言ってまた頭を下げるのもご愛敬だ。
「ほら、ほかのお客さんが待っているよ」
 優しく促して、男は袋に入れた弁当を下げて、その場を離れた。
 別の客の精算をしながら、恭巳は横目で男が店を出て行くのをじっと見守っていた。
「いい男だわねえ」
 感心したように目の前の客に言われて、恭巳は我に返った。近くに住んでいるらしい顔馴染みの女性客だ。
「そ、そうですね」
 なぜだか、声が裏返ってしまって、恭巳はあたふたと客が買った品物を袋に入れた。
「ありがとうございましたぁ」
 同じマニュアルどおりの声を出しながら、明らかに男に対したときとは自分の感情が違っている。意識すると、なんだか心臓まで鼓動を早めてしまい「どうしちゃったんだ、オレ」、と、気合いを入れるために頬を叩いた恭巳だった。
 いったん客足が途絶えたところで、店長が、脱力したように控え室側に置いてある椅子に腰を下ろした。基本的に店内で座ることは禁止されているが、見えないところならいいだろうと、控え室に続く通路に椅子が一脚置いてあるのだ。今夜みたいな夜のシフトのときは、ちょっと一服するときに重宝している。
「大事にならなくて、よかったよ」
 大学時のバイトから、そのままここの店長になったという彼は、恭巳とそう年は違わない。さっきのような非常時には、どうしても対応が後手に回る。
「それにしても、彼、初めて見るね。なかなかの男前だから、前にも来店していれば覚えていると思うけど。最近このあたりに越してきたのかな」
「どうでしょう。でもこちらにまた見えたときには、なんかサービスしないといけませんね。さっきは動転していて、そんなこと思いつきもしなかったけど」
「あ、そうだね。値引きするとか、おまけするとか、そのあたりは君に任せるよ」
 大学進学のために上京したときからこのコンビニで働いている恭巳は、店長に次いでこの店での勤務歴が長い。店長不在のときは代理も任されるほど信頼されている。
「だけど、ほんと、世知辛い世の中だねえ。コンビニで凄むほど困っていたんだろうか」
 答えようがなくて恭巳が吐息を漏らしたとき、入り口のドアが開いて、さっと外の生暖かい風が吹き込んできた。
「いらっしゃ……」
 いませ、と続くところが、途切れてしまったのは、入ってきたのが今噂をしていた救世主だったからだ。
 男は、つかつかとレジに近づいてくると、
「君、シフトは何時まで?」
 といきなり聞いてきた。
「はあ?」
 首を傾げる恭巳に、男は畳みかけるようにあとを続ける。
「この先の、ちょっと街灯の途切れる路地のあたりで、さっきの男を見かけたんだ。もしかしたら、腹いせに君を襲おうとしているんじゃないかと気になって」
「え?」
 客が入ると同時に立ち上がって恭巳の側に控えていた店長が、愕然とした顔をする。
「余計なことかと、一度はそのまま帰りかけたんだが。万一のことがあったら、こっちも目覚めが悪いからね。ボディガードとまではいかないけれど、牽制くらいにはなるよ」
「重ね重ね、すみません」
 男の好意に、胸が熱くなる。見ず知らずの他人をそこまで気にしてくれるなんて、彼は見かけどおりの好青年に違いない。質のいい背広が板についている。ブランドもの、というのが恭巳にはよく理解できないのだが、彼が着ている背広は変な皺もなく、オーダーメイドできちんと仕立てられたものだということくらいはわかる。この年でそんな高級品を纏うからには、それなりの高収入も得ているのだろう。
「青木君、いいよ、今日は帰って。どうせあと三十分くらいで交代も来るし。その間は僕ひとりで大丈夫。わざわざボディガードしてくださるとおっしゃるんだから、甘えさせていただいたら?」
「でも、店長」
 困惑する恭巳の背を、店長がぽんと叩く。
「不足分は、また次のシフトのときにでも足してもらうから」
「はい、すみません」
 素直にエプロンを外して、カウンターから出た。ここまでしてくれた客の好意を、恭巳も断りたくなかったのだ。腕に覚えなんかないから、襲われると怖い、というのももちろんある。奥のロッカーにエプロンをしまい、デイパックを提げて出てきた。
「よろしくお願いします」
 ほかに言いようがなくてぺこりと頭を下げると、
「いや、何もそうまでありがたがってもらうほどのことじゃ」
 とかえって男は困惑した顔を見せた。照れているのか、さっと背を向けて入り口のドアに向かう。恭巳も慌ててついて行った。店長の「気をつけるんだよ」という声に送られるようにして、昼間の猛暑が残る、生暖かい夜気の中へ足を踏み出す。
「あの」
 と恭巳は先を歩く男の背中に声をかけた。
「今夜は本当に」
「もうよそう。そんなに礼を言われては、こっちが困ってしまうよ。ただのお節介なんだから、あまり気にしないでくれ」
「でも」
「もう一度言ったら、ここに置き去りにして行くよ」
 ちらりと視線をくれて、冗談なんだか本気なんだかわからない宣言をされてしまう。さすがの恭巳も口を噤むしかなかった。それでも、無言のままでは気まずいので、またなんとなく話しかける。
「あ、オレ、青木恭巳といいます。K大工学部の四年で……」
「K大? それは奇遇だ。俺もなんだ」
「はあ?」
 つまり卒業したということだろうか?
「いや、現役の法学部の学生」
「ウソ……」
 思わず口ごもってしまったのは、恭巳のせいではない。どう見てもエリートサラリーマンにしか見えない彼が、まだ大学生だなんて、誰が信じるだろうか。
 ぽかんと口を開けて見つめる恭巳に、困ったように咳払いした彼は、
「本当なんだ。なんなら学生証、見るかい? ちゃんと小山内顕光って書いてあるから」
「いえ、そんな。信じないとかじゃなくて、ただ」
 いつの間にか、横に並んで歩いていた恭巳は、側の長身をじっと見上げた。
「でも、背広だし、この時間にコンビニで弁当なんて、どう見たってサラリーマン……」
「そうかなあ。背広着て大学へ行く学生だっているだろう?」
「いませんよ、そんなの!」
 思わず拳を固めて力説していた。その力の入りように、小山内がぷっと噴き出す。
「まあ、リクルートの連中なら、着ているかもしれませんけど」
 しぶしぶ認めると、小山内はますます笑い出す。弁当を入れたビニール袋が、小山内が笑いの発作で身体を震わせるのにつれて、がさがさと音を立てている。恭巳は憮然とした表情で、発作が収まるのを待った。
「だからって、そんな高級そうな背広はリクルートの連中だって着やしないし……」
 口の中でぶつぶつ文句を言いながら。
「ああ、すまなかった」
 小山内は長いこと笑い転げたあとで、ようやく涙を拭きながら笑いを収めた。苦しそうに腹を押さえている。
「こんなに笑ったのは、久しぶりだ」
「どこがおかしいのか、オレにはわかんないですけど」
 嫌みっぽく言ったけれど、別に本気ではない。笑っても男前の印象が崩れない端正な顔に、こっそり見惚れてもいたのだから、照れ隠しみたいなもんだ。
「気を悪くさせたかな」
 なのに相手が申し訳なさそうな顔をして覗き込んでくるから、ちょっと慌てた。
「あ、全然、平気っ」
 ぶんぶんっと首を振りながら否定すると、小山内が表情を緩めた。微笑したその顔にさえ惹きつけられて、おかしいぞ、オレ、と恭巳は内心で突っ込みを入れた。話題を変えようと、こほんと咳払いして、ふとあたりを見回し、
「もしかして、この辺ですか?」
 と薄暗い路地の手前で、身体を小山内の方へ寄せながら尋ねる。
「この辺って……」
 なんのことだと言わんばかりの不思議そうな声を出されて、
「だから、あの、待ち伏せ……」
「あ、そう、そうだ。確かこのあたり」
 はっとしたように小山内は恭巳の肩に手を置いて、身体が触れるほど引き寄せた。
「危ないから、ね」
 肩に手を置かれた途端に、恭巳の心臓が突然ドキドキと高鳴りだした。多分顔も真っ赤になっているだろう。耳とか頬とか、ものすごく熱い。
 なんだ、これ。
 自分の動揺に気を取られていた恭巳は、だから、待ち伏せを指摘したときの小山内のおかしな返事や、ちょっと考えれば不審を抱きそうな言動にも、全然気がつかなかった。女の子相手ならともかく、もう二十歳を超えた成人男子を、まるで庇うように自分の傍らに引き寄せるなど、普通はしないものなのに。
 何事もなく路地を通り過ぎても、小山内は肩に置いた手を放さなかった。そして自分の不可解な反応に気を取られていた恭巳も、恋人のように寄り添っているこの状態から身を引こうとは思いつかなかった。だって気持ちいいのだ。ちょうど相手の肩に自分の耳が触れる位置、肩を抱いている腕はしっかりと厚みがあって、しかも温かい。
 昼間の熱気を残す夜気の中で、人肌が心地よいと感じるその感覚がおかしいと気づかないで、小山内の肩に頭を添わせたまま歩き続けた。このまま時間が止まればいいのになあ、などとぼんやり思っていたのに、見慣れた外壁が見えてきて、現実に引き戻された。
「あ、ここ、なんですけど」
 赤錆びた手すりの階段がついたアパートを見上げながら、恭巳は名残惜しそうに呟く。学生だから、見た目がボロいアパートに住んでいたって、別に恥ずかしくはない。築後何十年経っているのかわからないほど外壁の色もくすんでいるその建物を、声もなく見上げている小山内の反応がちょっと気にはなったが。
「本当にありがとうございましたっ」
 と強いて元気な声を出すことで、心の中に湧いてきたもやもやを振り払った。たぶんボロいところだくらいは思われているのだろうが、会社に勤めて収入のある連中と比べられても困る。それに見た目はこんなでも、造りはしっかりしているし、トイレと風呂もちゃんと付いているのだ。さらに交通の便はいいし、掛け持ちしているバイト先も全部歩いて行ける距離にある。恭巳にとっては願ってもない好条件のアパートなのだ。
「あ、いや、それはいいんだけど」
「小山内さん、お住まい、どちらですか? オレ、ずうずうしく送ってもらっちゃったけれど、晩飯まだのようだし、ここから遠いんじゃ、なんか申し訳ない」
「家は、まあ、タクシー使えばいい、けど……」
 なんとなく言葉を濁す感じで、小山内が恭巳を見る。何か迷っているというか、そんな視線だ。
「でも、腹、減ってるでしょう。なんならその弁当だけでもうちで食べていきませんか? お茶くらい入れるし」
「そうだな。じゃ、ちょっとお邪魔しようかな」
 じっと見つめられて恭巳は困った。何か言いたそうな含みのある目つきには吸引力があって、引き込まれそうだ。
「汚いですけど」
 なんとか視線を引き剥がし、先に立ってギシギシ音を立てる階段を上がる。二階の一番端が恭巳の部屋だ。鍵を取り出してドアを開け、今朝もう少し片付けて出ればよかったと後悔しながら、「どうぞ」と小山内を促す。電気をつけ、六畳一間と狭い台所のある室内をざっと見回した。思ったよりこざっぱりした感じで、昼間は畳んでおく折り畳みベッドがそのままだったのと、その上にパジャマが投げてあるのくらいはご愛敬だろう。今朝寝坊して、ギリギリで部屋を飛び出したせいだ。
 台所の流しの横に造りつけの食器棚があり、収納されている板を引き出すと、それがテーブルになる。食事はたいていそこで済ませるので、椅子が一脚だけ置いてあった。
「狭いけど」
 と言い訳して椅子に座るように勧め、自分は湯を沸かすためにケトルに水を注ぎ入れた。小山内は部屋に入ってから、まだひと言も口をきいていない。あまりにみすぼらしい部屋に呆れているのだろうかと、そっとようすを見てみると、唖然としたように部屋を眺めてはいるものの、そこには嫌悪といった負の気配はなく、ただ物珍しくて見ているといった印象だった。もしかするとこのひとは実家も金持ちで、裕福に育ったのかもな、とある意味ほっとしながら苦笑した。自分が好意を抱いた相手に軽蔑されるのは、嫌なものだから。
「小山内さん、お茶、入りましたよ。ほら、上着脱いでくつろいで」
 近所のスーパーの特売で買った玄米茶を急須に入れ、勢いよくお湯を注ぐ。煎った玄米の香ばしい匂いがあたりに広がった。
「ああ、ありがとう」
 小山内は恭巳が差し出した手に脱いだ上着を渡し、勧められた椅子に座って弁当を広げた。湯飲みを側に置くと、さっそく箸を手に食べ始めた彼が軽く黙礼した。
 食事中にあんまりバタバタしても、と気が引けたが、さすがに出しっぱなしのベッドはどうよと思い、簡単に折り畳んで隅の方へ避け、パジャマも押し入れの中に押し込んだ。室内を眺め回して、それだけですっきりして見えるようになったのに安心し、パソコン用の椅子を持ってきて小山内の隣に座った。手を伸ばして自分用のお茶を入れる。
 やはり空腹だったのだろう。その間に彼はほとんど弁当を食べ終わっていた。
「このお茶、香ばしくておいしいね」
「ただの玄米茶ですけど」
 空の弁当箱にふたをしながら感心したように言うので、恭巳は思わず笑ってしまった。
「玄米茶……」
「飲んだことない?」
「うーん、たぶん、ない、と思う」
 湯飲みを支えて口元に持っていく動作が、ぴたりと決まっている。一口飲んだあと、軽く指で飲み口を押さえているのは、もしかしたら茶道の心得があるのかもしれない。だったら普段飲んでいるのも玉露系なんだろうな、と恭巳はここでもまた、小山内の育ちの良さを思った。
「あ、ねえ小山内さん、聞いてもいいですか?」
 無言でいるとなんか気詰まりだったので、恭巳は学生だと言った小山内の経歴を尋ねた。
「かまわないけれど。その丁寧な喋り方はなんとかしようよ。普通でいいんだからね」
「あ、じゃあ、ちょっと気楽にタメ口で……」
 丁寧語なんて慣れないから、実は舌が縺れるところでしたと頭を掻く恭巳に、ふっと笑顔を見せてから、小山内はもう一口お茶を飲んだ。
「別に改まって言うことでもないんだけど、四年前に経済学部を卒業してね」
 と、小山内は一度就職したものの、仕事に携わる上で法律の知識が必要なことに気がつき、改めて法学部に入り直したのだと教えてくれた。
「もっとも社会人枠だけどね。受験勉強はさすがに無理だし。それに一応卒業しているわけだから一般教養も免除で、専門課程だけっていう特典付き。司法試験までやるつもりもないんで、まあそれでいいかなあと。もっともちゃんと履修したら単位はくれるそうだけど」
「でも、それってすごい」
 思わず尊敬の眼差しを向けると、小山内は視線を逸らし、たいしたことないよ、と首を振った。
「で、その背広姿はどうして?」
 ついでに聞いてみると、退職するつもりだったところを引き止められて、現在は休職扱いになっているのだそうだ。そのせいで前に携わっていた仕事から完全には手を離せなくなって、時々引っ張り出されると、苦笑しながら話してくれた。
「そのぶん時給計算で給料をくれるから、実は助かるのも本音なんだけれど」
「収入がないって、やばいじゃん。どうやって生活してるの?」
「まあ、貯金を取り崩して、かな。休職だから会社に籍が残っていて、他でバイトなんかできないんだ。結構大変だよ。今住んでいるマンションも、もっと安いところに引っ越したいんだが、敷金礼金がばかにならないから」
 思わず、オーダーメイドらしい背広の上着をちらりと見た。それは今プラスチックのハンガーに掛けられて部屋の隅にぶら下がっている。ああいう服をさりげなく着ている男が、安アパート生活に甘んじる。とても真似できないなと、ますます尊敬してしまう。このまま会えなくなっちゃうのは嫌だなあ、もっと親しくなりたいなあ、という気持ちが、恭巳の口を開かせた。
「このアパート、どう?」
「どうって……」
「隣、ついこの間空いたんだよね。まだ決まっていないと思うよ」
 小山内が身体ごと向きを変えて正面から恭巳を見た。その真っ直ぐな視線に目を合わせづらくて、微妙に逸らしながら、このアパートの利点を並べ上げた。
「外側は確かに年季が入っているけれどね、風呂とトイレは付いているし、交通の便もいい。家主が昔気質のひとだから、不動産会社通していなくて、口コミで来る入居者ばかりなので、敷金も礼金も取らないんだ」
 なんでこんなに一生懸命になっているのだろうと自分でも訝りながら、小山内がその気になってくれたらいいなと、心の隅で願っている。
「ありがとう、考えてみるよ」
 社交辞令だとすぐわかった。淀みなく口から出た言葉には、その気を感じない。いくら安いアパートを探しているにしても、ここまでボロいと対象外なのだろう。
 やっぱり余計なことだったんだ。
 そう思ったから、恭巳も軽く受け流した。
「うん、そうしてみて」
 弁当を食べて、お茶も飲んでしまうと、もう引き止める口実もなかった。小山内が立ち上がるのを見て、恭巳は掛かっていた背広をハンガーから外して手渡した。
「今夜はお世話になりました」
 小山内とともに下まで降りて、改めて礼を言う。
「これに懲りないで、また店の方にでも寄ってください。今度いらしたら何かサービスするって店長が言ってましたよ」
「いや、そこまでしてもらっては……。しかし、店にはまた行くよ。どうせ食事は外食か弁当なんだ。どうも家事は苦手でね」
 笑いながら手を振り、歩きだした小山内はもうこちらを振り向きもせず行ってしまった。見えなくなるまで見送ったあと、恭巳は脱力したように肩を落とし、のろのろと部屋に戻った。
 パソコン用の椅子をしまい、さっきまで小山内が座っていた椅子の背をなんとなく撫でてみた。バイトで忙しい恭巳が部屋に友達を呼ぶことはあまりなく、ひとりで過ごしている部屋にひとの気配があったのは久しぶりだ。そしてそれが失われたあとの時間は、なぜかもの悲しい。
「いまさらホームシックでもないだろうに」
 そんなことを呟いていると、田舎に残してきた両親と弟妹たちの姿がふっと浮かんできた。
 高三で進路が話題になったとき、両親は当然地元の大学に進むのだと思っていたらしい。たいして裕福な家庭ではなかったし、下に年の離れた弟妹もいたから、仕送りする余裕はないとはっきり言われてもいた。それを押してまで出てきたのは、自分の学びたい学部が地元の大学になかったからだ。学費は出してもらっているが、生活費はバイトと奨学金でまかなっている。
 理系の学部で働きながら学ぶのは、けっこうきついものがあったけれど、それもあと半年少々。まだ就職が決まっていないのがちょっと心配だが、卒業までにはなんとかなるだろうと楽観的だ。どうしてもダメだったときは、わたしの助手として大学に残りなさい、と担当教授の石丸に誘われてもいるし。
 明日は朝一で、研究室の予約が廻ってくる日だ。寝よ寝よっと。
 恭巳が取り組んでいる研究は、ナノテクノロジー分野の中でも超微細シリコンの一種を扱うものだ。原子や分子レベルの実験を行うために必要な機器は非常に高価で、学生同士で融通し合いながら使うしかない。教え子たちの独自な研究を後押しするタイプの教授である石丸も、学生と一緒に順番を待っているなんて現実は少々いただけないが。半面、不足しがちな機材をお互いに譲り合うことで連帯感が深まり、ようやく回ってきた順番が、早朝だったり、深夜だったりしても誰からも文句は出なかった。グループ内の結束を固める役には立っているようだ。
 横になってもなかなか眠気が襲ってこない。気がつけば小山内のことばかり考えている自分に、恭巳はギュッと強く瞼を閉じた。



「どうなされました?」
 どんなときでも丁寧な口調を崩さない周防が、助手席から半ば身体を捻るようにして声をかけてくる。
「どうとは?」
「沈んでおられるように見えますよ」
「ばかな。考えていただけだ」
「それならけっこうですが」
 広々した後部座席に陣取りながら、小山内は腕組みをして眉間に皺を寄せていた。
 芙蓉電機グループの後継者という顔を取り戻した彼には、先ほどまで恭巳の前で装っていた、爽やかな好青年の面影は微塵もない。若くして権力を手中にしている尊大で傲慢な顔。その渋面ですらもともとの見栄えがいいから、決して悪者顔にはなっていないのだが。
 青木恭巳の性格は、ある程度予想どおりだった。お人好しで面倒見がよい長男気質。調査書を熟読してから立てた計画は、おそらくうまくいくだろう。それに不安はない。気にかかるのはただ……。
 写真どおりの小作りな顔と、繊細に収まったそれぞれのパーツ。影が薄いな、が写真を見たときに受けた印象だったのだが、実物に接して驚いた。薄いなんてとんでもない。身体中から躍動するような生気が溢れていて、溌溂とした雰囲気が接する相手すべてに好感を抱かせる。愛されて育った者のみが持ちうる人懐こさに、つい引き込まれる。好きな道を進んでいるという自覚のせいか、苦学生の荒みを感じさせない。
 澄みきった瞳はことに印象的で、その目で見つめられると、秘密を抱えて近づこうとしている自分の欺瞞を暴かれそうな気になってしまう。ばかなと思いながら、計画どおりに彼を誘導するために、何度か自分を奮い立たせなければならなかった。
 若いながら、落としのテクニックは抜群と言われてきたこの自分が、無害な好青年のイメージを保つために、全神経を動員させなければならなかったその反動が、今のしかめっ面だ。
「しかし、偶然とはいえ、好都合でしたね。あなたが通われている大学に、青木さんも所属されていたとは。近づくには絶好のシチュエーションでした」
「絶好、ではないだろう。キャンパスが違うから、ばったり出くわして、などという手は使えないし。勉強するために再入学したのに、余計な仕事を押しつけられたこっちは大迷惑だ。それで、アパートの手続きはできているか?」
「はい。元の住民も、好条件で地方の仕事を紹介してありますから、こちらにふらふら姿を現すことはないでしょう。最初から隣に越してくるために下準備したとは、青木さんも気づかないはずです。ところで、誘いの言葉は無事引き出せましたか?」
 偶然に知り合って、隣に越してくれば、と恭巳に言わせるまでが第一段階だった。チャンスを窺っていたところに今夜の事件があったわけだ。まるで作為したような展開だが、別にそこまで仕組んだわけではない。ちゃっかり利用させてもらったのは確かだが。
「ああ、ちゃんと誘われたぞ」
「さすがに。そういうところで押すあなたのツボは、外れたことがない」
「数日後に引っ越す。準備しておいてくれ」
「荷物は何を運び入れますか? あまり大量では怪しまれるでしょう」
「ベッドとパソコンがあればいい。うまく信頼を得てサインさせるまでの間のことだ。そんなに長居するつもりはない」
 迷う気持ちがどこかにあった。あの顔が悲痛に歪むところは見たくない、と考えかけて首を振った。違う。こちらは正当な条件で彼の研究を利用させてもらいたいだけだ。もちろんそれ相応の金額を提示して。話し合いすらも拒否する頑固な態度を取られなければ、こんな強引な手を取らなくてもよかったのだし。だいたい素晴らしい宝の山を持っていながら、あんなボロアパートに住み続けるなんて気がしれない。
「意外に長引くかもしれませんよ」
 小山内に命じられるまま忠実に動く周防は、自分の意見を述べることはあまりないのだが、時々ポロリと漏らされるそれは核心を突いていることが多く、聞いた途端嫌な予感が走った。



 眠い目を擦り擦り、恭巳は自転車を走らせている。さすがに大学に徒歩で行き来するのは無理があるが、自転車なら片道二十分くらいで辿り着ける。始発終電に関係ないから、機器の予約は、争奪戦の激しい昼間を避けて早朝夜間に入れることが多い。そうするとほぼ希望どおりに利用することができるのだ。
 昨今の物騒な世相が取り沙汰されるようになってから、夜間は大学の門も閉じられるようになり、門脇に夜警が常駐するようになった。学生証を見せ、行き先と目的を申告して入れてもらう。時間外に訪れることの多い恭巳は、交代で詰める夜警の何人かとは顔馴染みになっている。
「頑張っているねえ。あまり無理をするんじゃないよ」
 声をかけられて、
「大丈夫! オレ若いから」
 うんっと力こぶを見せてから、手を振って別れた。後ろで「あまり強そうには見えないよ」とツッコミが入るのは、無視だ無視。
 自転車を押しながら駐輪場に向かい、途中にある実験棟を何気なく見上げた。三階の教授室から明かりが漏れている。
「げ、教授だ。やばいじゃん、オレ」
 先日早朝に機器の使用を予約したとき、
「じゃあ、わたしも付き合おうかな」
 と石丸が言っていたのを、今思い出した。慌てて自転車を停めると、全力疾走で実験棟に向かう。
 高価な機材の置いてあるこの建物は、許可された人間しか出入りできないことになっていて、ゲストで申請しても自由に中は見られない。必ず誰かが付き添って、機材の損壊やゲスト自身の身の安全に留意することになっていた。もっとも昼間はさすがにそこまで厳格に規定が適用されることはないのだが、そのぶん、時間外は厳しい。セキュリティロックがかかってそれを無視して入棟しようとすると、たちまち大音響のサイレンが鳴り、警察と契約しているセキュリティ会社に通報がいく仕組みだ。
 予約したときに渡されたカードと暗証番号でドアのロックを外し、息を切らしながら階段を駆け上がる。実験室は一階と二階をぶち抜いて作られているが、教授が来室しているとなれば、まずは挨拶だろう。
 忙しないノックをして、返事も待たずに押し開けた先に、こんな早朝でもパリッとした身なりの石丸が立っていた。地味ではあるがイギリスのテーラーに作らせているという背広は一日着たあともあまり皺がなく、材質もそうなのだろうが細かいところに手を入れることで、着崩れを防ぐ工夫がしてあるのだという。飲み会か何かのときに、石丸自身がそう言っていた。
「たいしてものに執着はないんだけれどね、これだけはこだわっているかもしれない」
 俳優の誰かに似ているという、純和風の顔立ちが穏やかに微笑むと、女子学生たちが嬉しそうに悲鳴をあげる。歳もまだ三十八歳で、若くして教授になった彼は、実は学長の甥で七光りなんだよ、と申し訳なさそうに裏事情を公言してる。そのくせ学会では斬新な成果を発表していて、若手の中では随一という評価も得ているから、気取らない率直なところや、真摯な研究態度に、女子学生だけでなく、理系の学生間では絶大な人気を誇っていた。
「遅かったね。もうスイッチ類はすべて入れて準備万端整っているよ」
「すみません!」
 なんか昨日から謝ってばかりだ、とチラリと思いながら、教授の後ろから部屋を出る。実験室の手前でロッカーに荷物をしまい、白衣を纏う。
 理系というと白衣のイメージなんだけど、なんでかなあ、と、恭巳は白衣に手を通すときいつも感じる疑問をまた思いながら、ボタンを留めた。実験やら何やらで汚れて、染みを落としたりするの、けっこう大変なんだけれどな。
「そのかわり、汚れた原因を突き止めるのも簡単だろう? 色物の実験衣だと、汚れたことさえ気がつかなくて、実際に皮膚に異変が起きてから異常がわかる、なんてことになる」
「うわっ」
 胸の中で思っただけなのに、口に出していたらしい。すぐ後ろに立っていた教授から返事が返ってきて、恭巳は思わず飛び上がった。
「白衣はめんどくさがらずにこまめに洗うことが、君自身の安全に繋がるんだよ」
「そ、そうですね」
 あまりに近い距離で、教授が喋ると息がかかる。ウヒャッと首を竦めながら、恭巳は慌てて一、二歩退いた。教授はけっこうスキンシップ好きなのだ。女子学生には、セクハラと言われる可能性を考慮して距離を置いているらしいが、その分小柄で扱いやすい(らしい)恭巳が、よくその餌食にされている。
「さて、行こうか」
 今度は何をされるかと幾分緊張気味の恭巳にニコッと笑いかけながら、教授は先に立ってドアを開ける。
 あの、笑顔。なんか憎めないんだよなあ。
 肩に手を置かれて、抱き締められそうになったり、今にもキスしそうな距離に屈んでこられたこともあるが、
「やめてくださいよう」
 と困惑して文句を言うと、いつもあの邪気のない笑顔を向けられて、自分のほうが意識過剰なのではないかと思わされてしまう。グループ内でも恭巳は教授のお気に入りと認識されていて、過剰なスキンシップをからかわれることはあっても、嫉妬のかけらも浴びせられることがないのは、それが教授の癖だと皆が知っているせいだ。女子学生には、「わたしにしてくれれば嬉しいのに~」と羨ましそうに言われている。
 実験途中でそのまま保管してあったシリコン基板を取り出し、器具にセットする。メタンガスと水素の準備をして、電子顕微鏡の調節をしていた石丸に合図する。
 あちこちで一斉に機器が唸りをあげ始め、恭巳は一瞬身が引き締まる気がした。
 さて、今日はどんな結果が出るか。

 午前中の講座はないという石丸に誘われて、恭巳はやれやれと教授室のフカフカのソファに腰を下ろした。造りつけのミニキッチンで、資料整理に来ていた女子学生が淹れてくれたコーヒーを、両手で抱えるようにして受け取り、満面の笑みを彼女に向ける。
「助かるよ~。もう立ち詰めで、足、ガクガクいってんだ。座ったら動きたくなくてさあ。飲みたかったけど淹れる気力もなかった……」
「でも、いいデータ、取れたんじゃない?」
 教授専用の広々した机が、実験データで埋まっている。机の端に置かれたコーヒーにも気がつかずに、石丸は真剣な目で打ち出された数字を睨んでいた。その姿へ目配せしながら、女子学生が揶揄すると、「まあ、そこそこ」と恭巳が苦笑する。
「じゃ、わたしは行くから、あとよろしくね。カップは流しに下げといて」
 これから会社訪問なのと言いながら、彼女は忙しそうに出ていった。ずっと同じ教室で学んできて、その優秀さは折り紙付きの彼女にしても、今年の就職戦線はなかなか厳しいようだ。
 恭巳はコーヒーを啜りながら、自分もほんとは走り回らなければいけないのだけどなあ、とチラリと石丸に目をやった。すでに何社か受けたのだが、色よい返事はもらえないままだ。グループの全員がいるところで落ちたことを報告した恭巳に、
「心配しなくても、君の将来はわたしが引き受ける。安心しなさい」
 と教授が告げた言葉は、まるでプロポーズみたいだったと、あとでからかわれるネタになった。
 ―確かにずっと研究だけで生きて行けたら、幸せだけどな。
 と恭巳も思う。でも卒業したら親の援助はなくなるし、当たり前だけど自分で食べていかなければならない。もちろん奨学金も返さなくてはならないし、できれば家にも仕送りして、弟妹たちの学資の手助けもしたいのだ。
 あとで就職課を覗いてみるかな。
 考えながら、一心にデータを見ている石丸をぼんやりと見ていて、コーヒーを飲み終わったら失礼しようと決めた。データの整理まで終えておきたかったのだが、教授が満足するまでは触らせてもらえそうもない。
 春先に、恭巳は実験中思わぬ発見をしていた。シリコン基板上に、一平方センチあたり二十億から三十億本という超微細シリコンを発生させることに成功したのだ。先端の直径が約五ナノメートル(一ナノメートルは百万分の一ミリ)という小ささで、たとえばこれを応用すると、液晶より見やすいブラウン管方式で、液晶なみに薄い超薄型テレビを作ることが可能になるのだ。
 今は条件を変えたらどうなるかとか、安定して発生させることができるのかとか、系統的に実験を行い、データを集めているところだ。
「偶然できました、では、だめなんだよ。誰がどこで実験しても、条件が同じなら同じ結果が出るというのでなくては」
 でき上がったシリコン基板を確認したあとで、石丸に説諭された。確かに作ろうと思ってできたものではないから、どうしてできたのか、と聞かれたら困ってしまう。
「素晴らしい成果であることは間違いないから、もう少し頑張ろう」
 それ以来、恭巳の研究はこれ一本に絞られている。石丸の薦めで、卒論もテーマを超微細シリコンに絞った。とどのつまり、バイトと実験に明け暮れる生活で就職活動がままならないというジレンマに陥っているのだ。
 早朝に起きてずっと動き回っていたせいか、椅子に腰掛けてじっとしていると、眠気が押し寄せてくる。データを見続けている石丸の姿が、霞んできた。ああ、眠りかけているなと思った次の瞬間には、恭巳は机に伏せていた。
 やがて健やかな寝息をたて始めた恭巳の側に、データに夢中になっていたはずの石丸が近づいてきた。
「おやおや、無防備なことで」
 すっと手入れのよい長い指が伸びてきて、優しく髪の毛を梳き始める。スースーと気持ちよさそうな寝息が漏れている、少し開いた唇を指先でなぞり、石丸が吐息をつく。
「可愛い顔をして……。君が必要だと、何度も意思表示をしているのに。なんで、わからないのかなあ。せつないねえ」
 そのまま屈み込んで、少し汗ばんだシャツの襟をくつろげてやる。そして悪戯っぽく微笑むと、耳のすぐ下に唇を押し当てて強く吸った。
 ピクリと身動ぎした恭巳は、石丸が唇を放すと、何もなかったかのようにまた眠りの中に沈んでいった。
「これで、何度目だろうね、青木君。見えにくい場所とはいえ、付けられたキスマークにまったく気がつかないとは。君自身の無邪気さが憎いよ、わたしは」
 君に未だ恋人のいない証だから、まだ許せるけれどね、と自分がつけた鬱血の痕に指を滑らせ自嘲する。
「さてさて、それにしてもあまり無警戒だと、かえって付け入る隙がないというか」
 困ったものだと首を振りながら石丸は、最後に柔らかな髪の毛をツンと引っ張ってから、自分のデスクに戻った。
 すっと風が剥き出しの項をくすぐり、その感触にぴくっと身体を揺らした恭巳は、ぼうっとした目を上げた。思わず口元を拭いながら、うたた寝していたのか、とゆっくり背筋を伸ばす。
 違和感を感じて、耳の下あたりを撫でてみるが、虫に刺されたようでもなく、やがて記憶の彼方に薄れてしまった。
「教授、帰りますよ~」
 冷たくなった残りのコーヒーを飲み干して、そっと声をかけたが、石丸の耳には入っていないようだ。飲まないまま冷めてしまった石丸のコーヒーカップと自分のを、一緒に流しに下げてさっと洗ってから、恭巳は静かに教授室を出て行った。

 実験の結果をまとめるのに数日かかった。石丸が、なかなかデータを渡してくれなかったせいだ。最後までやってしまおうと思ってその日のバイトは断っていたのだが、恭巳の邪魔をしたことにちゃんと気づいていた石丸が「ごめん、ごめん」と謝りながら手伝ってくれたおかげで、思ったより早く片づいた。
 きちんとまとめた報告書を手渡すと「よく頑張ったね」と頭を撫でられた。頑張ったも何も、あなたが邪魔をしなければもっと早く片づいていたんです、とも言えず、ため息をつきながら大学を後にした。
 バイト先に電話してみると、頼むから来てくれと言われ、荷物を置きに急いで家に向かう。
 この日のバイトは夫婦ふたりでやっている小さな定食屋だ。おいしいと評判で、いつ行っても行列ができているところだった。昼は弁当ランチしかないが、夕方からは持ち帰りのおかずもあるのでてんてこ舞いの忙しさなのだ。
 夕方に近い時間とはいえ熱暑は収まらず、汗をかきかき自転車をこいでいた恭巳は、アパートが見えてきたあたりで、思わずブレーキをかけた。真ん前の道路を塞ぐように、引っ越し用のトラックが停まっている。
「ありゃ、隣、決まっちゃったんだ。小山内さんにウソを教えたことになっちゃうなあ」
 実際に小山内が越してくるわけはないと思いつつ、勧めた責任をチラッと感じてしまう。
 アパートには、いわゆる住宅費にお金がかけられない人間が多く入居している。身も蓋もない言い方をすれば貧乏人だ。今時の大学生はけっこうリッチで、マンションとかに入るらしく、アパートの住人は恭巳のほかに学生はいない。
「小山内さんなら、間違いなく浮いちゃうな」
 なにしろりゅうとした背広姿しか浮かんでこないのだ。一週間前に知り合った彼のことは、あれ以来何かにつけて脳裏をよぎる。コンビニでバイトをしていても会わないまま日が過ぎて、本来ならそのまま記憶が薄れていくはずなのに、小山内の記憶だけはますます鮮明になる一方だ。
 空き部屋が埋まってしまったことになんとなくがっかりしながら近づいたとき、
「青木君」
 と声をかけられて、びっくりして振り向いた。手にコンビニの袋を提げた小山内が笑いながら歩いてくる。
「小山内さん?」
「引っ越してきたんだよ。君の勧めに従ってね」
「え? 本当に?」
 シャツとジーンズという軽装で、髪も下ろしている彼は、先日会ったときよりも若々しく見える。荷物を運び終えた引っ越し業者に料金を払ってから、見ていた恭巳を振り向いた。
「幸い、大家さんにも気に入られてね、トントン拍子に契約できた。全部君のおかげだよ」
 感謝する、と言われても、なんと答えたらいいのか。
「ちょっと寄らないか? まだ全然片づいていないけど、引っ越しそばを買ってきたから」
 そんな恭巳の戸惑いを察したかのように、小山内がコンビニの袋をカサカサ言わせながら気さくに誘いかける。
「ほんとはコンビニで会えるかなと思っていたんだけどね。店長が、今日はシフトに入っていないと教えてくれたのでがっかりしていたところなんだ」
 腕を引かれるまま、段ボール箱が重ねられている部屋に入った。
「まだテーブルとかないから」
 言いながら小山内は、段ボールの箱のひとつをテーブル代わりに、コンビニの袋からパックに入ったそばと、お茶のペットボトルを取り出した。
「あ、オレ、バイト……」
 言われるまま箸を手に取って、そこではたと気がついた。
「食べる暇もない?」
 引き留めちゃいけないのかなと、見上げた小山内がどこかひと恋しげに見えたので、
「あ、いや、それくらいは」
 と上げかけた腰を下ろしてしまった。
 自分も何度か食べたことのあるそのそばは、今夏のヒット商品で、つゆの味と麺のコシが人気で出せばすぐ品切れになる品物だった。
「よくありましたね、これ」
 ツルツル食べながら、なんとなく話しかける。話題と言ってもそんなものしか思いつかないのだから仕方がない。黙ったまま食べるのは気詰まりだし……。
 自分らしくないと思いながら一週間ぶりに見る小山内からなぜか目を逸らしてしまう。また会えればいいなと思っていたはずなのに、と自分の心の動き方が今ひとつ理解できないまま。
「俺はここぞという勝負どころで外したことがないんだ」
「ここぞ、なんてそばを手に入れることくらいで言わないよ、普通」
「そばじゃないよ、君だよ」
 大げさなと言い返したところに、思ってもいなかったことを言われて、恭巳は危うく喉を詰まらせるところだった。
「大丈夫か」
 箸を置いた小山内が、身体を乗り出すようにして背中をさすってくれた。
「ほら、これを飲んで」
 ペットボトルを握らされて、口元に押しつけられる。思わずゴクンと飲み込んで、ほうっと息をついた。
「もう、小山内さん、食べてるときにへんなこと言わないでよ」
「ん? へんなこと?」
「あの場面で、君だよ、なんて言ったら誤解のもとっしょ」
「だけど、コンビニに行ったのはそばを買うためではなくて、君に会いに行ったのだから。どこかおかしいか?」
 咄嗟に切り返せず、恭巳は黙ってしまった。じわじわと耳のあたりが熱くなる。それが嬉しいという気持ちであることを、もちろん経験から知っている。見ず知らずの、以前に一度会っただけの男に言われて、なんで自分はこんな……。
「おや、耳が赤くなっているよ」
 楽しそうに言われて、ぱっと耳を押さえた。どことなくひとの悪そうな笑みを浮かべた小山内がこちらを見ている。思わせぶりに首まで傾げて。その途端、恭巳は確信していた。
「小山内さん、もしかしてわざと?」
「ん? なにが?」
 とぼけてツルッとそばを食べてみせる小山内に、チェッと舌打ちする。
「いいじゃないか。君も俺に逢って嬉しいと思ってくれたんだろう? 独りよがりだと嫌だなと思って、確認させてもらいました」
「か、かくにん……」
 口をぱくぱくさせていると、小山内は食べ終えたパックに丁寧にふたをしてから、手を差し出した。
「これから、よろしく。青木恭巳君」
 にこやかに言われて反射的に差し出した手をギュッと握られると、胸の奥までキュンと甘く締めつけられた。
「ところで、バイトはいいの?」
 意味ありげに言われて我に返ると、手はまだ握られたままで、思ったよりも近くに小山内の顔があった。
「……!」
 なに? と疑問を感じるより先に唇に柔らかいものが押し当てられる。
「気をつけて行っておいで」
 今のはなんだったんだ、とボケッと小山内を見上げ、
「急がないと遅刻だよ」
 と促されるままに、いつも下げているデイパックを持って玄関に向かった。座り込んで靴の紐を締め、外に出てからようやく、キスしたんだと脳が認識した。ボッと火を噴いたように顔が真っ赤になる。
「な、何をして……」
 文句を言おうと勢いよく振り返った先で、小山内が「ごちそうさま」と笑っている。ひらひらと悪びれずに手を振る彼を見ると、ただの冗談(……たぶん)に喚きたてるのも大人げないような気がして、恭巳は急いで階段を駆け下りた。
 ―ほんとに、もうっ。教授といい、小山内さんといい。オレはおもちゃじゃないんだ。
 薄暗くなりかけた中で自転車を走らせながら、唇が熱を持ったように疼いて仕方がなかった。


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